大西洋
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1500年には、インドへの航海中だったペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジル北東部に到達し、1494年に締結されたトルデシリャス条約の分割線の東側だったためポルトガルによる開発が行われるようになった[19]1513年にはバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによってアメリカ大陸が最も狭まる地点であるパナマ地峡が発見され、1515年にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見された[20]ことでアメリカ大陸を越えるルートが利用可能になった。

1520年にはフェルディナンド・マゼランマゼラン海峡を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であるうえ経済の中心地域から遠く隔たっており、船を回航する際には利用されたものの商業航路としてはあまり利用されなかった。太平洋からのルートはむしろ中央アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過することが多く、1566年からはベラクルスポルトベロといった太平洋からの貿易ルートの終着点をめぐり、スペインのセビリアを目指すインディアス艦隊が就航するようになった。この航路によって新大陸で取れたがスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となった。一方でこうしたスペインの艦船に積まれた財宝を狙う私掠船海賊もこのころから大西洋に出没するようになり、そのうちの一人であるイギリスのフランシス・ドレークは、1578年ドレーク海峡を発見している。

これらのヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆるコロンブス交換が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からはコムギなどがもたらされる一方、新大陸からはトウモロコシジャガイモトマトたばこなどがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。

また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点であるリスボンや、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。
近世大西洋三角貿易

17世紀に入るとスペインの勢力は衰え、オランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。一時は各国が競って大西洋交易を担う西インド会社を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。北アメリカ大陸においては、1607年にイギリスがジェームズタウンを建設し、さらに1620年メイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。

18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島アメリカ南部に運んで砂糖綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった[21]。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス商業革命の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも官僚宣教師などの移動も活発化して、大西洋はイギリス帝国の内海になった[22]。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。1763年のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて七年戦争の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、アメリカ独立戦争が勃発。1776年アメリカ合衆国は独立することとなった。
近現代

19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。また、独立を達成したラテンアメリカ諸国も経済的にはイギリスにほとんどの国が従属することとなり、対南米航路においてもイギリスは優位を占めることとなった。また、19世紀にはヨーロッパ大陸から移民が大西洋を渡って陸続と南北アメリカ大陸へと押し寄せた。この時期には、輸送手段の革新と高速化も進んだ。19世紀に入って開発されたクリッパー船帆船の頂点をなすもので、アメリカとイギリスが主な生産地であり、この両国によって使用され、これによって大西洋両岸の時間的距離は大きく縮まった。1818年には最初の帆船による定期航路がリヴァプールニューヨークを結ぶようになり、1838年には蒸気船による定期航路がリヴァプールとブリストルからニューヨークにそれぞれ開設された[23]1833年には最速で大西洋を横断した船舶にブルーリボン賞が贈られるようになって、スピード競争が始まった。1858年にはアイルランドのヴァレンティア島とカナダのニューファンドランド島との間に初の大西洋横断電信ケーブルが敷設された。このケーブルは失敗したものの、1866年に再敷設された際には成功し、以後大西洋の両岸を結ぶ海底ケーブルが次々と敷設され、両岸の情報伝達は急激に改善された。1914年には大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が開通し、それまでマゼラン海峡を回るしかなかった船舶が中米地峡を通過することができるようになったことで両地域間のアクセスは飛躍的に向上した。

1919年以降、技術の進歩によって大西洋を飛行機で横断することが可能となり、大西洋横断飛行記録に注目が集まるようになった。1919年5月には飛行艇が着水しながらニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンまでの横断に成功し、同年6月にはニューファンドランド島からアイルランドまでの無着陸横断が成功。1927年5月20日にはチャールズ・リンドバーグがニューヨーク?パリ間の単独無着陸飛行に成功した。

1949年には北大西洋条約機構が設立され、北大西洋の両岸(北アメリカと西ヨーロッパ)が軍事同盟を締結したことによって北大西洋は巨大な軍事同盟の傘の下におかれることとなった。

1970年、イギリス人男性が単独で手漕ぎボート(全長約6m)による大西洋横断を果たした。イギリスからカナリア諸島を経由し、アンティグア島に142日で至ったもの[24]
国際関係

北大西洋の両岸は、北アメリカと西ヨーロッパという世界でもっとも開発された地域となっており、政治的にも経済的にも関係が深い。この両岸の協調関係を重視する政治主張は大西洋主義と呼ばれる。北アメリカ大陸のアメリカ・カナダ両国はアングロアメリカとも呼ばれる通り、イギリスから独立した国家であり両国間の関係が強い。これに対し、メキシコ以南の中央アメリカ・南アメリカ地域はスペインおよびポルトガルから独立した国家が多く、イベロアメリカとも呼ばれ、イベリア半島の両国との関係が深い。1991年からはこの両地域の首脳が年一回集結するイベロアメリカ首脳会議が開催されている。
経済

北大西洋は、世界で最も開発された地域である西ヨーロッパと北アメリカを結ぶため、世界で最も重要な航路の一つとなっている。資源としては、アフリカのギニア湾沖に油田が数多く存在し、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、アンゴラ各国の財政を潤している。

大西洋に面する都市で最も重要な都市は、北アメリカ大陸のニューヨークである。ニューヨークはアメリカのみならず、世界で最も重要な都市となっている。


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