免停期間中は、友人の田中健二郎らを率いて、レーシングチーム「チーム・マグナム」を結成するほか、モータースポーツ、飛行機、ヨットの操縦に熱中する。創作でも、1966年からオートバイレースを題材とする『汚れた英雄』の連載を開始する。
1968年に東京都府中市にて三億円事件が発生。当時『ボーイズライフ』(小学館)に連載していた『血まみれの野獣』と事件現場や犯行の手口に類似点があったことから、事件発生当日よりマスコミからの問い合わせが相次いだ[9]。
1971年 、「チームマグナム」が自動車レース第7回日本グランプリで総合六位となる[6]。
1973年10月、角川文庫より大藪作品の刊行開始。第一弾作品は『復讐の弾道』で、講談社、新潮社、桃源社、双葉社、光文社、徳間書店などの刊行作品を含む、作者の生前最も大規模なカタログであった。装幀は辰巳四郎が一手に引き受けた。
1979年 、角川映画『蘇える金狼』が松田優作主演で公開。1980年、角川映画『野獣死すべし』が松田優作主演で公開。1982年、角川映画『汚れた英雄』が草刈正雄主演で公開。1994年、日本冒険作家クラブの「功労賞」受賞[6]。
没後』が未完のまま絶筆となる[注 3]。
1997年、その年の優秀なミステリー・ハードボイルド・冒険小説に授与される大藪春彦賞が創設される。 非情な作風とは裏腹に、家庭では家族想いの温和な人物であった。妻の龍子は「週刊スリラー」の編集者として、大藪の『ウィンチェスターM70』を担当していた時、食事を摂らずに執筆する姿を見て、朝食を差し入れる等するうちに結婚することとなった[注 4]。結婚後は2児をもうけた。 典型的なアンチヒーローを主人公に据えた、壮絶なバイオレンス・アクションを描いた作品が多く、政財界と癒着した組織により、すべてを失った者たちによる「復讐」をテーマとする作品もある。 テーマを具現化する主人公で、作者自身も思い入れの深い人物として、伊達邦彦や朝倉哲也(『蘇える金狼』)、北野晶夫(『汚れた英雄』)などがいる。 彼らは屈強な体力と旺盛な食欲・性欲にあふれ、強烈なストイシズムと反権力志向を持ち、超人思想や能動的ニヒリズム、個人主義的アナーキズムに通ずる反国家・反組織・反体制の思想を行動原理とする。なお、大藪は「自分で体験したことしか書けない」として、主人公の来歴や境遇は自身の体験に基づくものが多い。 作品に暴力の描写が多いのは、大学生時代に愛読したアメリカのハードボイルド小説の影響による。大藪は人間の心理描写を得意としたレイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドよりも、バイオレンス・アクションを描いたダシール・ハメットやミッキー・スピレインなどの作品を好んだ。 また、作品の随所には、しばしば銃器や車輌、刀剣についての解説が挿入されている。ナイフメーカーのガーバーやロバート・ウォルドーフ・ラブレスなども、大藪が作品で取り上げたことにより、日本での知名度が高まった。
人物
交友関係
三島由紀夫は大藪作品の熱心な読者だったが、ごく親しい友人しかそのことを知らなかった。大藪も三島の大ファンであり、両者は1968年(三島事件の2年前)に対談している(『週刊プレイボーイ』“武器の快楽”)。
太宰治の作品、とくに戦中の作品を高く評価していた。上記の三島との対談では、大藪が太宰の作品を(太宰と不仲であったとされる)三島に熱心にすすめ、三島が仏頂面になる一幕もあった。
横溝正史の主要な長編は全部読んでいた[10]。大下英治との対談では、なかでも『獄門島』が好きであり、自分でも瀬戸内海を舞台とした作品を書いてみたい、と語っている[11]。同インタビューでは横溝以外に高木彬光、山田風太郎、土屋隆夫などが好きとも語っている。大藪は後に横溝正史賞の選考委員も務めている(第1回 - 第5回)。
自身の小説の挿絵画家としては大塚清六がお気に入りだった。大塚とは1958年の『血の罠』から1973年の『黒豹の鎮魂歌』[注 5] まで、雑誌連載や単行本などで断続的にコンビを組んだ。
劇画家の佐藤まさあきとは同じ拳銃マニアとして親交があった。佐藤の為に劇画『夜の復讐者 弔いは誰のために』の原作を書き下ろしたが、版元の河出書房が倒産したため2話で打ち切りとなった。
文壇とは距離を置いていたが、生島治郎[注 6]、森村誠一、片岡義男など同世代の作家たちと交友関係があった。のちの世代では、平井和正、馳星周、花村萬月、島田荘司、夢枕獏、船戸与一、評論家の野崎六助、関口苑生、茶木則雄、新保博久などがファンとして知られる。
筒井康隆の短編「優越感」(「三丁目が戦争です」を戸建て住民側視点で描いたもの。作品としてはこちらが先)に“不法所持のワルサーを持ち出して参戦するハードボイルド作家”として登場する。
趣味
愛車は、ダットサン・ブルーバード1200から、フェアレディ、スカイラインGT-B、スカイラインGT-R、BMWなどを乗り継いだ。
1973年(昭和48年)オーストラリアのダーウィンで、ワイルド・バッファロー43頭を射殺し、「ハリー・ザ・キラー」の異名をとった。[12]
作風
著作リスト
シリーズ作品「野獣死すべし」挿絵
「宝石」1958年7月号
伊達邦彦シリーズ
野獣死すべし(中編)大日本雄弁会講談社、1958年
野獣死すべし 復讐篇 新潮社、1960年
野獣死すべし 渡米篇(短編)荒地出版社、1960年
血の来訪者 新潮社、1961年
諜報局破壊班員 徳間書店、1965年
日銀ダイヤ作戦 光文社、1970年
不屈の野獣(短編集)秋田書店、1971年
マンハッタン核作戦 光文社、1976年
優雅なる野獣(短編集)角川書店、1979年