大航海時代
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古代の国際交流マケドニア王アレクサンドロス

強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは文明のゆりかごの発祥地をはじめインカ帝国アステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。

古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を世界として認識していた。アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。

パックス・ロマーナの下、整備された航路道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[3]。多様な人種民族奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った[4]。また、こういったグローバリズムが進んだ影響でペストの大流行などを始めとする疫病がヨーロッパを中心とするエピデミックも起こっているが、それによってグローバリズムの対義的なナショナリズムの勃興も見られるのもこの頃からで古代ギリシャのような都市国家よりも範囲の大きな領域国家の形成につながる流れも見え始める。

中東・インド・中国でも強力な世界帝国[5]が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、シルクロードや複数のスパイスロードによる香辛料貿易など多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。
ヨーロッパの停滞と復興

ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人ノルマン人が相次いでヨーロッパを侵し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリアフランスドイツでは、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代を経験した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練され、徐々に力をつけていった。西暦1000年頃、ヴァイキングと呼ばれていたノース人ヴィンランドニューファンドランド島)のランス・オ・メドーに到達した記録が『赤毛のエイリークのサガ』や『グリーンランド人のサガ』に記録されている。しかし、先住民スクレリングの激しい抵抗に遭い、10年ほどで放棄した。
十字軍

11世紀後半セルジューク朝トルコパレスチナ占領する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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