渡は1975年1月?2月に撮影された『仁義の墓場』で東映初出演、初主演し[5]、「東映でも充分看板スターになれると証明した」と評した[5] 岡田社長は、「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の渡路線を確立することだ」とぶち上げ[15][17][19][20][21]、1975年2月19日に東映本社であった記者会見で[22]、本作『大脱獄』で高倉健と、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太(主演)と共演させ、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(『実録外伝 大阪電撃作戦』と見られる[22][23][24])で主演させ、「渡のローテーションは年間六本位になる。渡の参加は東映打線に大きな役割を果たしてくれると思う」などと話し[17][22]、東映スター渡をイメージ付けようとした[5][9][15][19][20][21]。渡には他社からも出演オファーが相次いだが『仁義の墓場』がクランクインした1975年1月16日に「ホームグラウンドは東映に置きたい」と渡も東映に腰を落ち着ける決意を述べた[25]。『県警対組織暴力』の次は『暴動島根刑務所』で松方弘樹(主演)との共演もこの時点で決まっており[5]、岡田社長は1975年度作品の製作方針として「フィクションといっても実録的なムードを基調にした極端なスーパーアクションを基本路線とし、半期に一本は社会的な大事件などを題材にしたスーパー・ピクチュアーを製作公開する」などと話し、その他多くの製作予定作を合わせて発表した[注釈 2]。 石井輝男は1960年代半ば『網走番外地』のシリーズ化が決まったとき[27]、東映の猛反対を押し切りフリーになっており[27][28]、岡田から「高倉・渡でかつての網走的なものにしてくれ」と発注を受け[22]、脚本に取り掛かったのは1975年1月[29]。脚本完成は1975年2月19日[29]。高倉主演・石井監督の組合せは1973年の『現代任侠史』以来であるが、『現代任侠史』は脚本が大御所・橋本忍で石井の思うように作れず[27]。
脚本