大脱獄_(1975年の映画)
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渡は1972年から石原プロモーションに所属していたが、岡田茂東映社長が1971年の社長就任時から[8]「渡哲也を高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と東映に引き抜こうと画策し[8][9][10]、自身のブレーンの一人だったスポーツニッポンの記者・脇田巧彦に仲介を頼み[8]、1972年に赤坂料亭で渡と会い[10]、「君に東映の看板を背負って欲しい。石原プロを辞めて、ウチに来てくれないか」と口説いたが、「私は石原裕次郎に恩義があります」と断られた[8][10]。しかし渡は「本来、僕は映画人間。テレビは何としてもはがゆい。食える食えないでなく、映画のために力を貯えたい」と話すほど[11]、映画が大好きな人で[11]、所属する石原プロ自体も映画製作にずっと意欲を持ち続けていたが、石原プロでの映画製作は諸事情あってなかなか実現に至らず[12]。岡田との付き合いはその後も続き[13][14][15]、映画で自身を活かすなら東映しかないと、東映映画の出演を熱望したため[14]、渡は東映入りの報道もされ[14]、石原プロ所属のまま東映映画に出演することになった[10][14][15][16][17]。渡は1974年NHK大河ドラマ勝海舟』を途中降板した後、長期入院し1974年10月退院後、すぐに『脱獄広島殺人囚』主演のオファーを受けたが[9][14][18]、断り[14]代役は『勝海舟』と同じく松方弘樹が務めた[14][18]。また『新仁義なき戦い』の出演要請も断り[14]、年内いっぱいを体力作りの休養に充てた[14][18]

渡は1975年1月?2月に撮影された『仁義の墓場』で東映初出演、初主演し[5]、「東映でも充分看板スターになれると証明した」と評した[5] 岡田社長は、「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の渡路線を確立することだ」とぶち上げ[15][17][19][20][21]、1975年2月19日に東映本社であった記者会見で[22]、本作『大脱獄』で高倉健と、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太(主演)と共演させ、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(『実録外伝 大阪電撃作戦』と見られる[22][23][24])で主演させ、「渡のローテーションは年間六本位になる。渡の参加は東映打線に大きな役割を果たしてくれると思う」などと話し[17][22]、東映スター渡をイメージ付けようとした[5][9][15][19][20][21]。渡には他社からも出演オファーが相次いだが『仁義の墓場』がクランクインした1975年1月16日に「ホームグラウンドは東映に置きたい」と渡も東映に腰を落ち着ける決意を述べた[25]。『県警対組織暴力』の次は『暴動島根刑務所』で松方弘樹(主演)との共演もこの時点で決まっており[5]、岡田社長は1975年度作品の製作方針として「フィクションといっても実録的なムードを基調にした極端なスーパーアクションを基本路線とし、半期に一本は社会的な大事件などを題材にしたスーパー・ピクチュアーを製作公開する」などと話し、その他多くの製作予定作を合わせて発表した[注釈 2]
脚本

石井輝男は1960年代半ば『網走番外地』のシリーズ化が決まったとき[27]、東映の猛反対を押し切りフリーになっており[27][28]、岡田から「高倉・渡でかつての網走的なものにしてくれ」と発注を受け[22]、脚本に取り掛かったのは1975年1月[29]。脚本完成は1975年2月19日[29]。高倉主演・石井監督の組合せは1973年の『現代任侠史』以来であるが、『現代任侠史』は脚本が大御所・橋本忍で石井の思うように作れず[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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