大統領内閣
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その一方で、社会問題に対するブリューニングの姿勢は、ヒンデンブルクが敵視するSPDにとって都合のよいものであった[14]

ブリューニング内閣は、国会第一党であったSPDを除く右派から中道の各党から閣僚を受け入れて成立した[11]。ブリューニングは国会に各種法案を上程したが、一方でヒンデンブルクはヴァイマル憲法第48条を盾にしてブリューニングを援護する姿勢を打ち出していた[15]

1930年4月3日にSPDが主導して内閣不信任決議の動議が提出されたが、ドイツ国家人民党(DNVP)が反対票を投じたことからブリューニング内閣はかろうじて命脈を繋いだ[16]。ブリューニングは、1930年7月に世界恐慌の直撃を受けた財政の建て直しのため国会に人頭税の新設を含む財政改革案を提出したが、DNVPの切り崩しに失敗して却下されてしまう。これを受けてヒンデンブルクはヴァイマル憲法第48条を発動して通過させた[17]。歴史家ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーは、このときをもって議院内閣制から大統領制に移行したとみなしている[18]

大統領緊急令をもって通過させた財政改革案であったが、SPD・共産党・ナチ党が連携して議会多数勢力の反対をもってこれを差し止めてしまった。これを受けてヒンデンブルクは国会を解散させて選挙に打って出たが、これが完全に裏目に出てどうやっても多数派となる連立が組めない状況に陥った。ナチ党と共産党の左右両極が大躍進し、ナチ党に至っては国会第二党となった[19]が、ナチ党・共産党ともに他政党との協力を拒否したからである。ブリューニングはナチ党指導部に政府に協力するよう説得を試みたが、拒絶された[20]。結局、ブリューニングはSPDの支援によってナチ党・共産党の妨害を乗り切ることになった。SPDは極右の躍進を大いに警戒し、ブリューニング内閣に対する「寛容の方針(Tolerierungspolitik)」を打ち出して内閣不信任決議に反対する姿勢を示したが、その結果ブリューニングがヴァイマル憲法第48条に基づく大統領緊急令を乱発させて政策を実現できるようになった[20]。このため国会の立法府としての立場は大いに失墜し、1930年には94回の本会議があったものが、1932年には13回しか召集されなくなった[21]

ブリューニングはSPDの寛容の方針により退陣させられる危険性が遠ざかったことを受けて緊縮財政政策を推し進めたが、実業界や極右政治同盟のハルツブルク戦線からの猛烈な反対に晒された[22]1932年の大統領選挙ではヒンデンブルクが再選されたものの、ヒトラーが得票率36.8%を叩き出してナチ党が大衆の広範な支持を獲得していることも明らかになった。この傾向は続いて行われた各州の選挙でもさらに強まった[23]。ブリューニング内閣は、ナチ党の準軍事組織である突撃隊親衛隊を活動禁止とすることで対抗しようとした[24]が、ヒンデンブルクの顧問で最側近のクルト・フォン・シュライヒャーはナチ党の支援を得てより権威主義的な政権を樹立しようと画策していた[25]。シュライヒャーの構想では、ヴァイマル共和国軍がヒトラーとナチ党を下に置く支配勢力となるはずであった[26]。ブリューニングによる突撃隊と親衛隊の禁止は、シュライヒャーの計画に真っ向から反対するものであったため、シュライヒャーはブリューニングの解任に動いた[25]。1932年5月29日、ヒンデンブルクはブリューニングに辞職要求を突き付けた[27]が、その直接的な理由はエルベ川より東の領土において、ユンカーが管理しきれない土地を失業者に分配するという政策に関する意見の不一致であった[25]
パーペン内閣フランツ・フォン・パーペン、駐トルコ大使在任中の1936年に撮影。

1932年6月1日、ヒンデンブルクはフランツ・フォン・パーペンを首相に指名した[28]。中央党の元党員であった[28]パーペンは、貴族ばかりを集めて組閣したため、SPD系の新聞Vorwartsから「男爵内閣(Das Kabinett der Barone)」と書き立てられた[29]。パーペン内閣を承認したのはDNVPだけだったので、ヒンデンブルクはパーペンの権力を裏付けるためにヴァイマル憲法第48条を持ち出さなければならなかった[28]。パーペンを指名するとヒンデンブルクは直ちに国会を解散し、7月31日に選挙を実施することにした。解散中なら内閣は国会の反対を一切気にすることなく政策を実行できたので、準軍事組織の活動禁止を取り止め、さらに州選挙後に州議会が行き詰まっていたプロイセン自由州で、SPDを中心とする連立政権を軍を動員して転覆させた(プロイセン・クーデター[30]

7月に行われた選挙は、得票率37.4%を獲得して議席を107から230に倍増させたナチ党の地滑り的大勝利に終わり、ついにナチ党が第一党に踊り出た[31]。この結果を受けて、シュライヒャーはナチ党を懐柔すべくヒトラーに入閣を打診した。しかし、ヒトラーは自らが首相になるのでなければ受け入れられないとしてこれを撥ね付けた[32]。パーペンは留任したが、9月12日に野党提出の緊急令に対する動議で敗北したため、国会は再び解散された[33]

11月の選挙ではナチ党は前回ほどの大勝利とまでは行かなかったが第一党の地位を維持し、SPDも議席を減らした一方で共産党が議席を伸ばして第三党となったことから、国会運営の行き詰まりにも実質的な変化はなかった[34]。ヒトラーは再び国会第一党の党首として首相の座を求めたが、ヒンデンブルクはヒトラーが議会で過半数を押さえない限り承認することはないと述べたため両者は決裂した[35]。ヒンデンブルクは、パーペン内閣がこれ以上の敗北とそれに続く選挙(その結果としてナチ党が過半数を押さえること)を避けるにはあまりにも支持されていないことに気が付いた。ここに至ってパーペンは、軍事クーデターを起こして選挙を無期限に延期し、大統領権限を拡大して野党を抑圧することを提案した[36]。ヒンデンブルクは難色を示しつつ強く反対もしなかったが、シュライヒャーが頑として国軍の動員を拒否したこともあって、パーペンを解任することにした[36]
シュライヒャー内閣

1932年12月3日、シュライヒャーは首相に指名され、パーペン内閣とほぼ同じ顔ぶれで組閣した[37]。シュライヒャーは、ナチ党が中心となって蜂起すれば、国軍にはそれを抑え込む力はないとしてパーペンの強力な権威主義政権を樹立しようという計画に反対しており、そのことでヒンデンブルクの信任を得ていた[36]。シュライヒャー内閣は、12月6日から9日までのごく短い国会会期中には何とか政権を維持できたが、翌月に国会が再開されれば不信任決議が出るのは明らかな情勢であった。このため、国会抜きで政権運営するために非常事態の延長を考え始めるようになった[38]。このころ、国軍指導部は広範囲にわたるストライキ[38]を想定しており、さらには内戦の勃発さえあり得ると予想していた[39]。そこでシュライヒャーはナチ党の分断を図るべくグレゴール・シュトラッサーの入閣およびプロイセン州首相への就任を打診したり、労働組合に接近するなどしてこれを阻止しようとした。しかし、その努力は労働組合との妥協に反発した農業界・産業界のロビー活動により損なわれてしまった[40]タイム誌1933年3月号の表紙を飾るアドルフ・ヒトラー


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