高校生の頃はTBSラジオの番組『パックインミュージック』のパーソナリティを務めた野沢那智と白石冬美に憧れ、DJになりたかった[7]。
1971年秋、通所していた劇団「俳優小劇場」の養成所で、入所間もなく幹部間で内紛があり、直談判して費用を返金してもらう。その仲間が集まり、返金された金を元に劇団「表現劇場」を結成する。この時の仲間に、のちにシティボーイズを結成するきたろう、斉木しげるの2人と俳優の風間杜夫が在籍[7]した。1979年、きたろうと斉木、大竹の3人からなる芝居ユニット「シティボーイズ」を結成する[2]。劇団時代はアルバイトなどをせず、女性に経済的な援助を受けるヒモ生活を送る[8]。
新進気鋭の役者としてテレビの露出が増えていく風間の芝居を鼻で笑って腐していたが、ある日、手持ちの金が無く同居の女性に金銭を要求したところ、財布から500円を手渡され、全く収入の無い現状を認識して狼狽。とある公開イベントでプログラムを勝手に書き換え、何回かある幕間にシティボーイズのコントを差し込み、これが業界関係者の目に留まって芝居批評の記事になる。タレント業では芸能事務所「人力舎」と契約し、1979年、クイズ番組『ザ・チャンス!』のナレーションを受け持ったが、番組進行中に取り乱し昏倒、早々に降ろされた。数年のブランクを経て、再びテレビでの出番が増えていくが、放送媒体においては、シニカルなキャラクターから一転して、憤激して暴力と罵詈雑言で暴れるというタレントとして認知され、テレビ局から出入り禁止とされるほどの破壊的なキャラクターであった。単独で活動する際には常滑川 まことを名乗ることも多かった[7]。
1980年代初頭、上岡龍太郎が「東京にオモロイ(面白い)奴が居る」との噂を聞きつけ、大竹を関西の番組に呼ぶものの、大竹は萎縮してしまって何もできないまま東京に戻る。これで二度と関西から声はかからないだろうと恥じ入っていたが、上岡が大竹に再オファー、「何しても、ええ(良い)んやで。好きなようにやり(なさい)」とアドバイスを受けて腹をくくった大竹は罵詈雑言、乱暴狼藉を働く。結果、上岡もひっくり返って笑う程の爆笑を取り、近畿地区に足がかりを築く。上岡に対しては「師と仰ぐ事すら失礼にあたる」と尊敬の念をあらわにしている[9] この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2021年8月)
人物
眼鏡とヒゲが特徴的。2000年以降はヒゲと髪の毛どちらも白髪染めを一部やめ、黒髪白髪短髪を貫いている。
趣味は料理とゴルフ[10]。
若手お笑い芸人について理解が深く、朝日放送『M-1グランプリ』『ABCお笑い新人グランプリ』、関西テレビ『R-1ぐらんぷり』などの賞レースで審査員を務めていた。弟子に漫談家のユリオカ超特Qがいる[1]。
『仮面ライダー』の着ぐるみにも詳しい[7]。『大竹まこと ゴールデンラジオ!』の番組中で何度か過去の回想話があり「あの頃は大変だった。全国を廻ったりして、自分(=大竹本人)は仮面ライダーの着ぐるみショーの中で怪人や悪役の声を演っていて、ライダーの着ぐるみには風間杜夫が入っていた」とコメントしている[出典無効]。