大祚栄
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現代の永順太氏一族は大祚栄の父・太仲象(乞乞仲象)を始祖として崇めるため、集姓村慶尚北道慶山市南川面松栢里渤海村に大祚栄を祀っている[4][5]
姓名

渤海建国者「大祚栄」は、本名が「祚栄」であり、本来姓氏がなく、後に尊称として渤海王族の姓氏「大」を名乗った。

699年、大祚栄は靺鞨国王として自立し、尊称「da(古代ツングース語で酋長を意味する)」から渤海王族の姓氏「大」をつくり、その姓を名乗った。

稲葉岩吉は、靺鞨に相当する語を梵語(Makha、大の意)に求めて大人の意と解し、「姓は大氏」の大氏はその訳字とみた。したがって、種族の名称としては、粛慎より直ちに女真女直)となる訳で、女真の名称は契丹以後のものでなく、渤海の始祖乞乞仲象の乞乞がすなわち女直の初音と考えた。すなわち乞乞仲象・大祚栄は女真の巨酋であり、この巨酋が中心となって渤海国を建国、渤海の主権者および司配階級は、松花江黒竜江の女直とした[6]

契丹語遼史学者愛新覚羅烏拉熙春の研究によると、契丹文が「東丹国」と「渤海国」とを同時に言及する際には、「東丹国」には「dan gur」を用い、「渤海国」には「mos-i gur」を使用する。「dan gur」は、契丹人の渤海の故地に対する旧称であり、「mos-i gur」は渤海王族の姓氏「大」の意訳を使用してその国を指したものである[7]形容詞「大きい」は、契丹語には二種類の文法的形式があり、男性形は「mo」、女性形は「mos」、「mos-i」は、文法的変化語尾「-i」を帯びる女性形であり、契丹人北宋に対し正式な国号「su? gur(宋国)」を使用するとともに、非正式的な他称「?iaugu-i gur(漢兒国。「?iaugu-i」、本義は「趙国」。北宋皇帝の姓氏「」を用いてその国を指す)」をも用いる方法と同様である[7]。「mos-i gur」の解読の結果が示すところでは、渤海王族の姓氏「大」は渤海本族語ではない可能性がある。渤海王族の姓氏「大」の採用は、祚栄が開国して王となって以後であるが、かかる情況は契丹人は本来姓氏がなく、遼太祖が家を変じて国と為してのち居住地の名「耶律」を姓氏とした歴史と酷似する[8]。渤海王族の姓氏「大」が渤海本族語であるならば、契丹人は音訳形式でこの単語の発音を綴るはずであり、契丹語形容詞「mos-i」を用いて意訳する必要はない[8]。また、「祚栄」自身の名および後継の渤海歴代国王の名はみな漢語であり、漢文化浸潤の程度が契丹人より遥かに甚だしかったことがわかる[8]

漢文[7]契丹文[7]
正式な国号非正式な国号
遼国、契丹国kita-i gur(契丹国)
宋国su? gur(宋国)?iaugu-i gur(本義 : 趙氏国)
渤海国dan gur(「丹」国)mos-i gur(本義 : 大氏国)
渤海国→東丹国dan gur(「丹」国)

出自

大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海、本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。

ツングース系民族[9]靺鞨であると日本学界では広く受け入れられており[10]、「高句麗に居住していた靺鞨人[11]」「かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人[12]」「高句麗に帰化していた靺鞨人[13]」「高句麗に同化していた靺鞨人[13]」「高句麗に付属した粟末靺鞨族[14]」「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[15]」といった見解が好まれる。

897年に対して渤海の大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[16]。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[16][17]。臣謹按渤海之源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落。靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小蕃,嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作?而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流

渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[18]。 ? 崔致遠、謝不許北国居上表.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。謝不許北國居上表

大祚栄の父である乞乞仲象は、『新唐書』渤海伝では「舎利乞乞仲象」と記され、『五代会要(中国語版)』渤海伝にも「高麗別種大舎利乞乞仲象,大姓,舎利官,乞乞仲象名也。」とあり、これらは『渤海国記(中国語版)』に基づく記述であり、渤海側の所伝として、乞乞仲象が李尽忠(中国語版)の乱以前に高句麗遺民を率いて営州に居住、舎利という地位にあったことがわかる[19]乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 1][注釈 2]という官職は『五代会要(中国語版)』巻三十渤海上に「有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓,舎利官,乞乞仲象名也」とあるため官名であることがわかり、『遼史』巻一一六国語解に「契丹豪民?裹頭巾者,納牛駝十頭,馬百疋,乃給官名曰舎利。」とあることから舎利とは権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であることがわかり[20]、『遼史』と『資治通鑑』によると契丹[注釈 3][注釈 4][21][20]、『冊府元亀』によると靺鞨[注釈 5]にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗では舎利という官職の存在は確認できない[19][22][23][24]。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある[25][22]

一然は『三国遺事』で、大祚栄を粟末靺鞨酋長とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている[26][27][28][29]


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