大砲
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百目玉火矢銃と火縄銃百目玉抱え大筒

さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬曳きで運搬可能な強力な攻城砲も出現した[4]。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200キロメートル強離れた首都エディルネで鋳造されていた。

近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年ナポリの王位継承権を争ってフランスシャルル8世イタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった[5]。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。

一方、初期の大砲は鋳鉄や鍛鉄製であったが、素材の強度が威力向上化に追いつかず、金属文明の定性に逆行し鋳造性の良い青銅製に取って代わった。この名残で青銅は砲金ともいう。連射性、装填作業性を改善する後装式大砲の概念もフランキ砲のように早くから存在したが、増大する発射ガス圧をやはり封止できない問題があり廃れた。ライフリングの発明も15世紀だが、前装式では装填が面倒であることに加え、弾体がライフリングに食い込みながら銃砲身内を進むことで受ける抵抗のため内圧が上昇することで破裂(腔発)を起こす問題を解決できず、これらのアイデアの実用化は鋼鉄製火器の製造が可能になるのを待たねばならなかった。

また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また1571年レパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。

こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。
近世

近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾ぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。
近代

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ベトナムヴィンロンに設置されていた木製大砲(1862年)大日本帝国陸軍1882年明治15年)当時の砲兵下士卒の軍装

18世紀ごろからの産業革命に伴う製鉄技術の向上によって、脆く壊れやすい鋳鉄からより強靭で良質な錬鉄の大量生産が可能となり、鋳鋼製の大砲の製造が可能となった。また、製造精度の向上によって、駐退機、後装式、砲身へのライフリングなど、現在の大砲に用いられる基礎的な技術が実用化された。

近代以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退し再び狙いをつけて砲撃をするため、連続した砲撃を行うことができなかった。また、大砲自体が動くため砲撃精度は保証されず、砲撃の度に着弾点が大きく変わるといった欠点があった。1840年ごろから実用化されはじめた駐退機の登場によって、発射の反動を砲身の後退で吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃の精度が向上した。また、1897年にはフランスのM1897 75mm野砲で液気圧式駐退復座機が採用され、高速な連射が可能になった[6]。「駐退機」も参照

砲の後方から砲弾と火薬を装填する後装式は前装式と比べ、砲弾の装填が容易にかつ迅速に行える。初期の後装式砲は15世紀までには登場しており、フランキ式や縦栓式があった。しかし、この当時の技術による後装式砲は尾栓の気密性が低く燃焼ガスの漏れや強度不足により、前装式に対して威力が劣っていたり暴発などが起こった。これに対して産業革命期の製造精度の向上は尾栓の機密精度を向上させ、また錬鉄による頑丈な砲身によって、後装式の大砲が実用化された。「後装式」も参照

ライフリングによる精度の向上もあった。ライフイングは砲身内部に施された螺旋状の溝に沿って砲弾が回転しながら射出されることにより砲弾にジャイロ効果が働き、精度、速度、射程が向上する方法である。前装式の砲では装填の面倒さなどから実用化されていなかったが、後装式砲の登場によって大砲で実用されるようになった。「ライフリング」も参照

これらの技術は1800年代中盤から実用化され始め、南北戦争で用いられたホイットワース砲などがある。産業革命によってもたらされたこれらの技術は、この時代以降それまでの砲とは比較にならないほどの威力と、砲撃の精度、射程の向上を大砲にもたらした。
第一次世界大戦 〜 第二次世界大戦両大戦でイギリス軍が使用した「QF 4.5インチ榴弾砲」Mk.1P(1940年に撮影された、イギリスにおけるニュージーランド軍の演習)列車砲「クルップK5」(復元、アバディーン戦車博物館主砲を斉射するアイオワ(モスボール解除後の1984年)大日本帝国陸軍自走砲一式十糎自走砲(ホニII)


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