また、最後の作品となった映画『あなたへ』で共演した高倉健[注釈 8]は、大滝との共演シーンで涙を流したと語っており、「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かった、と思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ(「久しぶりに、きれいな海ば見た」)の中に、監督の思いも、脚本家の思いも、みんな入ってるんですよね」と振り返っている[15]。 役者としてのモットーは、「役にふける、浸る、込める」。演じる役柄の人生を深く追求して[注釈 9]役作りをしていくスタイルだった。周りからは役を突き詰めているように見えたが、本人は多くの場合満足感を得ることはなかったという[7]。 味わいのある庶民的な役柄でお茶の間を和ませたことから、視聴者からは「好々爺」という印象を持たれることがよくあった[7]。しかし意外にも大滝の演技の根源にあるのは実は狂気で、本人は「役者ってのは、心の中に何かしらの“狂気”というものを持っていないと表現できる分野を超えることができない」との考えを持っていた[7]。 また、演じることの難しさに悩み多き役者人生を送っており、生前「今までどんな役でも、やって楽しいと思えたことは一度もないです」と語ったことがある[注釈 10]。 「服(衣装)はその人物の歴史を表しているから、土地や仕事の匂いまで感じさせなくてはいけない」との考えを持っていた。『北の国から』ではリアリティを出すため、用意された衣装ではなく地元住民からジャンパーや帽子などを半ば強引に借りて撮影に臨んだ。このため撮影期間中は、周りから「追いはぎの大滝」と呼ばれていた[7]。 倉本聰は、「大滝さんは役者としては大変な奇人。役の中に入り込むと他のことが全く見えなくなるヘンテコな人なんです」と評している[7]。倉本が自身の作品の中で特に大滝の演技が優れている役として、『北の国から』の北村清吉役と『前略おふくろ様』の岡野次郎兵衛役を挙げている[7]。 倉本によると『北の国から』で大滝が演じる北村清吉の設定は、当初の脚本では「牧場経営者で、元は満州からの引揚者」という大雑把なことだけ書いていた。“引揚者の清吉がどういう理由で北海道の開拓に入ったか”を考えた大滝は、倉本との話し合いで台本にない過去を創作することで役柄に説得力を持たせた[7]。また、撮影期間中は一日の撮影が全て終わるまでは、カメラが回っていない休憩時間も大滝秀治ではなく清吉として過ごしていた[7]。 北海道放送時代に倉本作品でプロデューサーを務めた長沼修は、「大滝さんは必ず撮影の数日前にはスタジオに入り、セットの中でセリフをブツブツと呟きながら身体に覚え込ませていました。大滝さんの佇まいは、まるでそこで何十年も暮らしてきたかのように溶け込んでいました」[注釈 11]と回想している。 劇団民藝の劇団員である内藤安彦[16]は、「芝居になると、日常とは違う次元に行ってしまうような人でした。大滝さんは『台本を手放したら俺はその役から遠くなる(気持ちが離れる)』と言って、台本をいつも持ち歩いてました」[7]と語っている。
人物
役者としての考え方
周りからの評価など
その他
生まれたときから髪が白に近い灰色で、眉も白かった。このため、中学受験時の保護者同伴の面接試験の前にはトイレへ母と入り、マッチを擦って消し炭にして眉を書いて臨んだ。しかし、面接官に「その眉はどうしたのかね」と尋ねられたことで途端に母に手を引かれ学校を出た。本人は「その晩、母は泣いていた」と書いている。
若い頃に胸の持病があり、30歳の頃に左肺を切除している[8]。
奥村公延とは将棋仲間だった[17]。
倉本聰とは飲み友達。また倉本にとって、大滝は“芝居作りの師匠”と呼べる存在でもあった[7]。
奈良岡朋子とは、1948年に劇団民藝養成所の1期生として入団した同期生で、それ以来大滝が亡くなるまでの長年に渡り交流があった[7]。
好きな俳優は勝新太郎で、役を演じる時の迫力に惹かれていた[7]。
趣味は将棋のほか、クラシック音楽の鑑賞、落語や浪曲を聞くこと。
一般人からサインを頼まれた時はサインに加えて、時間がある時は自身の似顔絵や演じた役の印象的なセリフも一緒に書いていた[注釈 12]。
子供の頃から母親に大変可愛がられて育ったため、人見知りで知らない人と打ち解けるのに時間がかかった。普段は気が小さく心配症な性格で繊細な一面を持っていた[7]。
1955年に結婚し、世田谷区池尻の都営アパートで新婚生活を送った[7]。