大滝秀治
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しかし10月2日に容態が急変し、同日午後3時17分、肺扁平上皮がんのため東京都内の自宅で死去した[13]。87歳没。大滝の棺には、生前愛用していたセーターや鉛筆、同期女優の奈良岡朋子の手編みのマフラー、代表作『審判』・『巨匠』及び生前いつか演じたいと思い続けていた『なよたけ』の台本、上記の『これでいいのだ』の本が納められた[4]

同年10月22日港区の青山葬儀所でお別れの会が行われた[4]。この会には倉本聰、八千草薫など仕事関係者[注釈 6]や一般参列者を含む約980人が駆けつけた[14]。奈良岡朋子が葬儀委員長を務め、後輩女優の樫山文枝が司会を担当し、日色ともゑが弔電を紹介した。祭壇は故人の遺志で「シンプル」をテーマに、劇団民藝演出部が製作した[注釈 7]戒名は「瑞藝院秀聲居士(ずいげいいんしゅうせいこじ)」[14]。当時の天皇(現:上皇明仁)から、一般の香典にあたる祭粢料が贈られた[14]

また、最後の作品となった映画『あなたへ』で共演した高倉健[注釈 8]は、大滝との共演シーンで涙を流したと語っており、「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かった、と思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ(「久しぶりに、きれいな海ば見た」)の中に、監督の思いも、脚本家の思いも、みんな入ってるんですよね」と振り返っている[15]
人物
役者としての考え方

役者としてのモットーは、「役にふける、浸る、込める」。演じる役柄の人生を深く追求して[注釈 9]役作りをしていくスタイルだった。周りからは役を突き詰めているように見えたが、本人は多くの場合満足感を得ることはなかったという[7]

味わいのある庶民的な役柄でお茶の間を和ませたことから、視聴者からは「好々爺」という印象を持たれることがよくあった[7]。しかし意外にも大滝の演技の根源にあるのは実は狂気で、本人は「役者ってのは、心の中に何かしらの“狂気”というものを持っていないと表現できる分野を超えることができない」との考えを持っていた[7]

また、演じることの難しさに悩み多き役者人生を送っており、生前「今までどんな役でも、やって楽しいと思えたことは一度もないです」と語ったことがある[注釈 10]

「服(衣装)はその人物の歴史を表しているから、土地や仕事の匂いまで感じさせなくてはいけない」との考えを持っていた。『北の国から』ではリアリティを出すため、用意された衣装ではなく地元住民からジャンパーや帽子などを半ば強引に借りて撮影に臨んだ。このため撮影期間中は、周りから「追いはぎの大滝」と呼ばれていた[7]
周りからの評価など

倉本聰は、「大滝さんは役者としては大変な奇人。役の中に入り込むと他のことが全く見えなくなるヘンテコな人なんです」と評している[7]。倉本が自身の作品の中で特に大滝の演技が優れている役として、『北の国から』の北村清吉役と『前略おふくろ様』の岡野次郎兵衛役を挙げている[7]

倉本によると『北の国から』で大滝が演じる北村清吉の設定は、当初の脚本では「牧場経営者で、元は満州からの引揚者」という大雑把なことだけ書いていた。“引揚者の清吉がどういう理由で北海道の開拓に入ったか”を考えた大滝は、倉本との話し合いで台本にない過去を創作することで役柄に説得力を持たせた[7]。また、撮影期間中は一日の撮影が全て終わるまでは、カメラが回っていない休憩時間も大滝秀治ではなく清吉として過ごしていた[7]

北海道放送時代に倉本作品でプロデューサーを務めた長沼修は、「大滝さんは必ず撮影の数日前にはスタジオに入り、セットの中でセリフをブツブツと呟きながら身体に覚え込ませていました。大滝さんの佇まいは、まるでそこで何十年も暮らしてきたかのように溶け込んでいました」[注釈 11]と回想している。

劇団民藝の劇団員である内藤安彦[16]は、「芝居になると、日常とは違う次元に行ってしまうような人でした。大滝さんは『台本を手放したら俺はその役から遠くなる(気持ちが離れる)』と言って、台本をいつも持ち歩いてました」[7]と語っている。
その他

生まれたときから髪が白に近い灰色で、眉も白かった。このため、中学受験時の保護者同伴の面接試験の前にはトイレへ母と入り、マッチを擦って消し炭にして眉を書いて臨んだ。しかし、面接官に「その眉はどうしたのかね」と尋ねられたことで途端に母に手を引かれ学校を出た。本人は「その晩、母は泣いていた」と書いている。

若い頃に胸の持病があり、30歳の頃に左肺を切除している
[8]

奥村公延とは将棋仲間だった[17]

倉本聰とは飲み友達。また倉本にとって、大滝は“芝居作りの師匠”と呼べる存在でもあった[7]

奈良岡朋子とは、1948年に劇団民藝養成所の1期生として入団した同期生で、それ以来大滝が亡くなるまでの長年に渡り交流があった[7]

好きな俳優は勝新太郎で、役を演じる時の迫力に惹かれていた[7]

趣味は将棋のほか、クラシック音楽の鑑賞、落語浪曲を聞くこと。

一般人からサインを頼まれた時はサインに加えて、時間がある時は自身の似顔絵や演じた役の印象的なセリフも一緒に書いていた[注釈 12]

子供の頃から母親に大変可愛がられて育ったため、人見知りで知らない人と打ち解けるのに時間がかかった。普段は気が小さく心配症な性格で繊細な一面を持っていた[7]

1955年に結婚し、世田谷区池尻の都営アパートで新婚生活を送った[7]。妻との間に長女と次女が生まれた。長女の夫は、舞台演出家の山下悟[4]

受賞

紀伊國屋演劇賞個人賞(1970年) 『審判』

名古屋ペンクラブ賞(1973年

ブルーリボン賞 助演男優賞(1976年) 『不毛地帯』、『あにいもうと

キネマ旬報賞 助演男優賞(1976年) 『あにいもうと』

第1回 報知映画賞 助演男優賞(1976年) 『あにいもうと』

第12回 読売演劇大賞 大賞・最優秀男優賞(2005年) 『巨匠』、『浅草物語』

第64回 文化庁芸術祭(演劇部門・関東参加公演の部)大賞(2009年) 『らくだ』

第36回日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞(2013年) 『あなたへ

栄典

紫綬褒章1988年

勲四等旭日小綬章1995年[18]

文化功労者2011年

正四位旭日重光章(歿日付)

出演作品
舞台

かもめ1952年

審判(1970年

円空遁走曲(1973年

払えないの? 払えないのよ!(1985年

第二次大戦のシュベイク(1988年

研師源六(1995年


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