大滝秀治
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以降、1975年から1981年にかけて地方の巡査を演じた『うちのホンカン』での主演(第1作は第23回日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞した)を筆頭に、倉本作品にも多く起用された。1977年からの8年間にわたっては『特捜最前線』でたたき上げの刑事・船村一平役でレギュラー出演[注釈 3]し、認知度が上がり人気を博した[7]。その後は、徹底した役柄の人物造形に年齢による渋みが加わった[4]

「飄々(ひょうひょう)としつつも時には激昂する」という独特の芸風が人気を集め、関根勤のモノマネレパートリーの1人としても知られるようになる。モノマネは大滝公認であり(大滝のファンの一部には、「関根は大滝先生を愚弄している」という者もいたが、大滝はこれに対し「あれは演じているのだから良い」と答えたという)、1999年には「真似(まね)して真似され二人旅」で関根との共演を果たしている。

江口隆哉の考案した体操でハップという掛け声を云わされたことからあだ名はハップで、奈良岡朋子などの仕事仲間から長年に渡りこの名前で呼び慕われていた[7]

2002年(平成14年)から俳優の岸部一徳と共演している大日本除虫菊(金鳥)のCMでは、迫真かつユーモラスな演技を見せ[4]、このCMは2004年(平成16年)に東京コピーライターズクラブ賞のグランプリを受賞した。先述のモノマネも、このCMのセリフが使用されることが多い。

やずやのCMの中では宇野に自らの声を「壊れたハーモニカ」と評された先述のエピソードを吐露している。これは暗に舞台演出家への転向を促されたものであった。大滝自身も自分は声も顔も悪く、若い頃より老け役を演じることが多かったと振り返っており[12]、様々な老人役を演じた。
死去

2011年(平成23年)暮れから体調不良になり、その後病院の診断を受けて2012年(平成24年)2月27日に右肺にがんが見つかった[4][8]。同年6月の舞台『うしろ姿のしぐれてゆくか』への出演を取りやめたため、2011年6月から7月にかけて行われた舞台『帰還』が、最後の舞台出演となった[10]

主治医から手術や放射線治療を勧められたが、本人は「体へのダメージが大きく、役者復帰に支障が出るから」と拒否し[8]、その後は抗がん剤治療に専念[注釈 4]。入院中は本を読み漁るようになり、次女の勧めで最後に読んだ漫画家・赤塚不二夫のエッセイ本『これでいいのだ』を気に入った[注釈 5]。2012年6月末に間質性肺炎を併発したが病状が安定した9月7日に退院し、自宅療養となった[8]

がんになる前は60kgあった体重が42kgにまで減っていた[8]。入院中にドラマ出演の依頼があり、その後の生活では「12月と来年1月にはロケだから体力をつけないと」と言ってカツ丼やステーキを食べるなど自分を奮い立たせていた[4]

しかし10月2日に容態が急変し、同日午後3時17分、肺扁平上皮がんのため東京都内の自宅で死去した[13]。87歳没。大滝の棺には、生前愛用していたセーターや鉛筆、同期女優の奈良岡朋子の手編みのマフラー、代表作『審判』・『巨匠』及び生前いつか演じたいと思い続けていた『なよたけ』の台本、上記の『これでいいのだ』の本が納められた[4]

同年10月22日港区の青山葬儀所でお別れの会が行われた[4]。この会には倉本聰、八千草薫など仕事関係者[注釈 6]や一般参列者を含む約980人が駆けつけた[14]。奈良岡朋子が葬儀委員長を務め、後輩女優の樫山文枝が司会を担当し、日色ともゑが弔電を紹介した。祭壇は故人の遺志で「シンプル」をテーマに、劇団民藝演出部が製作した[注釈 7]戒名は「瑞藝院秀聲居士(ずいげいいんしゅうせいこじ)」[14]。当時の天皇(現:上皇明仁)から、一般の香典にあたる祭粢料が贈られた[14]

また、最後の作品となった映画『あなたへ』で共演した高倉健[注釈 8]は、大滝との共演シーンで涙を流したと語っており、「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かった、と思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ(「久しぶりに、きれいな海ば見た」)の中に、監督の思いも、脚本家の思いも、みんな入ってるんですよね」と振り返っている[15]
人物
役者としての考え方

役者としてのモットーは、「役にふける、浸る、込める」。演じる役柄の人生を深く追求して[注釈 9]役作りをしていくスタイルだった。周りからは役を突き詰めているように見えたが、本人は多くの場合満足感を得ることはなかったという[7]

味わいのある庶民的な役柄でお茶の間を和ませたことから、視聴者からは「好々爺」という印象を持たれることがよくあった[7]。しかし意外にも大滝の演技の根源にあるのは実は狂気で、本人は「役者ってのは、心の中に何かしらの“狂気”というものを持っていないと表現できる分野を超えることができない」との考えを持っていた[7]

また、演じることの難しさに悩み多き役者人生を送っており、生前「今までどんな役でも、やって楽しいと思えたことは一度もないです」と語ったことがある[注釈 10]

「服(衣装)はその人物の歴史を表しているから、土地や仕事の匂いまで感じさせなくてはいけない」との考えを持っていた。『北の国から』ではリアリティを出すため、用意された衣装ではなく地元住民からジャンパーや帽子などを半ば強引に借りて撮影に臨んだ。このため撮影期間中は、周りから「追いはぎの大滝」と呼ばれていた[7]
周りからの評価など

倉本聰は、「大滝さんは役者としては大変な奇人。役の中に入り込むと他のことが全く見えなくなるヘンテコな人なんです」と評している[7]。倉本が自身の作品の中で特に大滝の演技が優れている役として、『北の国から』の北村清吉役と『前略おふくろ様』の岡野次郎兵衛役を挙げている[7]

倉本によると『北の国から』で大滝が演じる北村清吉の設定は、当初の脚本では「牧場経営者で、元は満州からの引揚者」という大雑把なことだけ書いていた。“引揚者の清吉がどういう理由で北海道の開拓に入ったか”を考えた大滝は、倉本との話し合いで台本にない過去を創作することで役柄に説得力を持たせた[7]。また、撮影期間中は一日の撮影が全て終わるまでは、カメラが回っていない休憩時間も大滝秀治ではなく清吉として過ごしていた[7]

北海道放送時代に倉本作品でプロデューサーを務めた長沼修は、「大滝さんは必ず撮影の数日前にはスタジオに入り、セットの中でセリフをブツブツと呟きながら身体に覚え込ませていました。大滝さんの佇まいは、まるでそこで何十年も暮らしてきたかのように溶け込んでいました」[注釈 11]と回想している。

劇団民藝の劇団員である内藤安彦[16]は、「芝居になると、日常とは違う次元に行ってしまうような人でした。大滝さんは『台本を手放したら俺はその役から遠くなる(気持ちが離れる)』と言って、台本をいつも持ち歩いてました」[7]と語っている。
その他

生まれたときから髪が白に近い灰色で、眉も白かった。このため、中学受験時の保護者同伴の面接試験の前にはトイレへ母と入り、マッチを擦って消し炭にして眉を書いて臨んだ。しかし、面接官に「その眉はどうしたのかね」と尋ねられたことで途端に母に手を引かれ学校を出た。本人は「その晩、母は泣いていた」と書いている。

若い頃に胸の持病があり、30歳の頃に左肺を切除している
[8]

奥村公延とは将棋仲間だった[17]


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