大津祭
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諸葛亮(孔明)から考案したもの。所望は、趙雲が鉾を突き出すと水が涌き上がり、孔明が扇を上げ喜ぶ様子を表現している。創建当初は福聚山(ふくじゅやま)(町内文書によると三福神福裏山(さんぷくじんふくりやま))と称し、釣狐山(つりぎつねやま)、浦島亀釣山(うらしまかめつりやま)を経て、万延元年(1860年)、現名称となる。

石橋山(しゃっきょうざん) - 湊町(みなとちょう)。宝永2年(1705年)創建。俗に唐獅子山(からじしやま)とも呼ばれる。謡曲石橋から考案したもの。所望は、岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中に隠れる。かつては長い橋樋を用いて牡丹に獅子が戯れる様子が見られたと云う。現在の所、二体の唐獅子が現存している。創建当初は靭猿山/空穂猿山(うつぼざるやま)と称し、張良山(ちょうりょうやま)を経て、延享5年(1748年)、現名称となる。

龍門滝山(りゅうもんたきやま) - 太間町(たいまちょう)。享保2年(1717年)創建。俗に鯉山(こいやま)、鯉滝山(こいたきやま)とも呼ばれる。登竜門の故事から考案したもの。所望は、龍門山の滝をが躍り上がり、滝の中ほどで翼を左右に広げ雲の中に消えてゆくことでへの変身を表現している。現在の所、四体の鯉が現存している。

源氏山(げんじやま) - 中京町(なかきょうまち)。享保3年(1718年)創建。俗に紫式部山(むらさきしきぶやま)、お姫山(おひめやま)とも呼ばれる。紫式部源氏物語から考案したもの。所望は、紫式部の周りを様々な小人形(汐汲翁娘、船頭、牛車、従者など)や風景(松立木、小屋、釜戸)が現れては消えてゆくことで、紫式部が観月台で月を見ながら構想を練り書をしたためる子を表現している。

神功皇后山(じんぐうこうごうやま) - 猟師町(りょうしまち)。寛延2年(1749年)創建。略して神功山(じんこうやま)とも。神功皇后が鮎を釣り戦勝を占ったという伝説から考案したもの。所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、岩に金色の「三韓之王者」の文字が現れる。終戦直後はを釣る所望であった。かつては鮎釣山(あゆつりやま)、征韓山(せいかんざん)とも呼ばれた。安産の山とされ、御神体に巻かれた腹帯が授与されている。また、巡行の順番が早い方がより安産になると云われている。

月宮殿山(げっきゅうでんざん) - 上京町(かみきょうまち)。安永5年(1776年)創建。俗に鶴亀山(つるかめやま)とも呼ばれる。謡曲の鶴亀(喜多流の月宮殿)から考案したもの。所望は、頭上にの冠をつけた女の舞人との冠をつけた男の舞人が皇帝の前で舞う。創建当初は鳳凰臺山(ほうおうだいざん)と称した。寛政3年(1791年)、現名称となる。

休山


神楽山(かぐらやま) - 堅田町(かたたちょう)。寛永14年(1637年)創建。三輪山(みわやま)とも呼ばれる。安政6年(1859年)の巡行を最後に休山となり、明治初年に町内の財政が逼迫し人形と幕類を残して本体は京都に売られたと云い、1872年(明治5年)には曳山町を退いている。現在は居祭(いまつり)を行っている。所望は、三輪明神が舞を舞い、禰宜が締太鼓を叩き、市殿が鈴を振り、飛屋が鉦を叩き神楽を奏し神をいさめようとする所を表現したものであった。所望もだが、外見も湯立山と殆ど同じだったという。近年、神楽山の描かれた刷り物(当時のパンフレットのようなもの)が発見された。2016年(平成28年)からは、国指定を記念して粽が作られ販売されている。翌年からは手拭いも販売されている。

その他
ねりもの


布袋(ほてい) - 新町(しんまち)。創始は詳らかではないが、元禄6年(
1693年)には存在していた事が、古文書「四宮祭礼牽山永代伝記」により明らかで、現存する唯一のねりもので、宵宮と本祭両日に町内に飾られる。元禄8年(1695年)に「布袋ねりもの車に乗せる」とあり簡単な屋台のような物に乗せられていた時期もあるようである。箱書きによると、その後文化7年(1810年)に新調されたようである。いつまで巡行に参加していたかは不明ではあるが、1928年昭和3年)の御大典の時にねり歩いた記録が残っている。現在では張子の布袋の他に唐子人形が一体残されている記の神楽山の描かれた刷り物の行列の中に、布袋も確認できるのである。2016年(平成28年)から、国は指定を記念して粽と手拭いが作られ販売されている。

布袋以外にも古くは多くの町内がねりものとして参加しており、曳山町も半数は元々ねりものを出していた。元禄6年(1693年)には17カ町がねりものを出している。当時のねりものを列挙すると、

大江山(おおえやま) - 境川町(さかいがわちょう)。 ※1915年大正4年)年の御大典の時にねり歩いた記録が残っている。

俵藤太(たわらのとうた) - 葭原町(よしはらちょう)。

鵺(ぬえ) - 猟師町 → 曳山町。

大名(だいみょう) - 下東八町(しもひがしはっちょう)。

布袋(ほてい) - 新町。

花(はな) - 坂本町(さかもとちょう)。

汐汲(しおくみ) - 米屋町 → 曳山町(塩屋町と合併し白玉町)。

河狩(かわかり) - 湊町 → 曳山町。

鷹匠(たかじょう) - 中堀町 → 曳山町。

雪山(ゆきやま) - 元会所町(もとかいしょちょう)。

小具足(こぐそく) - 中京町・上京町 → 曳山町。

大具足(おおぐそく) - 後在家町・太間町・下小唐崎町 → 曳山町。

鉾(ほこ) - 上小唐崎町(かみこからさきちょう)。

?猊(さんげい) - 八幡町(はちまんちょう)。 ※?猊とは獅子のことである。

である。当時、曳山町であった橋本町も曳山創建以前は愛宕詣(あたごもうで)と云うねりものであった。

最後までねりものとして巡行していたのは1885年(明治18年)まで巡行していた坂本町の「花」であり、1913年(大正2年)の宵宮に飾られていた記録もあるが、現在はその痕跡も伝承も残っていない。また、固定した題材ではなく毎年のように変わる町内もあった。

現在のお渡りに使われている獅子は元は八幡町(のちの松幡町(まつはたちょう))の出していたねりものの「獅子」だと云われている。
神輿


大宮(おおみや) - 天孫神社に祀られている神輿2基の内。1961年(昭和36年)頃までは神輿渡御で舁かれていたが、やがて人手不足等でトラックの荷台に載せるようになり、舞殿に飾るだけとなり、神輿蔵に入れられたままになっていたが、2015年(平成27年)に国指定祈念ということでおよそ45年ぶりに舞殿に飾られた。2016年(平成28年)には国指定記念として、台車に載せて渡御した。2017年(平成29年)には修復されて、舁かれて渡御した。

二宮(にのみや) - 天孫神社に祀られている神輿2基の内。大宮と同じくかつては神輿渡御で舁かれていた。その後大宮と同じ経過で神輿蔵に入れられたままとなる。こちらは2015年(平成27年)に出される事はなく、それ以降も出されていない。

神輿(みこし) - 下百石町(しもひゃっこくまち)。「伊勢参宮名所図会」に紙の御輿という名で登場する。かつては2基の天孫神社の神輿と共に舁かれていたが、これも人手不足などでトラックの荷台に載せる様になり、その後、町内に飾るだけの居祭を行なっていたが、2016年(平成28年)には国指定記念としておよそ半世紀ぶりに舁かれて渡御した。同年からは、国指定を記念して粽が作られ販売されている。手拭いも販売されている。2017年(平成29年)は破損箇所が見つかった為、大宮とは逆に台車に乗せての渡御となった。


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