大河津分水
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中止された分水路工事の替わりとして@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}翌1876年[要出典]内務省による「信濃川河身改修事業」が着手された。これは近代信濃川治水史の原点とも言われ、堤防の築堤と河川敷整備を中心としたものであった。だが、河川敷整備は川原に棲息するツツガムシによる古典型ツツガムシ病の蔓延によって多くの工事従事者が病に倒れた。

また、この事業は堤防の改修によるものであったため抜本的な解消には至らなかった。1881年(明治14年)には田沢与一郎、田沢実入らが中蒲原郡白根(現新潟市南区)に信濃川治水会社を設立、分水工事再開のための運動を広め、1882年(明治15年)11月から翌年3月にかけて有栖川宮左大臣・岩倉具視右大臣に面会して、大河津分水工事の再開を請願した。
「横田切れ」から通水まで

1896年(明治29年)7月22日、西蒲原郡横田村(現燕市横田)地内において「横田切れ」と呼ばれる信濃川の破堤による空前の大水害が発生した[7][8][9]。流域に甚大な被害を与え、堤防整備の有効性に疑念が噴出した。こうした中で原田貞介が大河津分水工事改良案を提出。これを元に1907年(明治40年)、原田案をベースに第2期大河津分水路工事が着手された[1][5][10]大河津分水工事

当時東洋一の大工事と言われ、外国製及び国内製の最新掘削機を投入。採掘した土砂は2,880万立方メートルで、工事に携わった人はのべ1,000万人にも及んだ。

こうして発案から約200年の歳月を経て、1922年大正11年)8月25日に分水路は通水[5][11]1924年(大正13年)には竣工式が行われた[4]。工事中には3回もの地滑りが発生し[12]、特に3回目は掘削してきた分水路が土砂で埋まってしまうほどの大規模なものもあった。
通水後

1927年昭和2年)5月にすべての工事が完了したが[5]、その直後の6月24日には分水路の川底が掘られ自在堰の基礎下部に空洞が生じ陥没[12]。信濃川本流の水が分水路に流れ込んだ結果、下流域へは殆ど流れなくなり、下流域の生活・農業用水及び当時盛んであった舟運に多大な影響を与えた[12](舟運への打撃は新潟交通電車線敷設の契機ともなった)。新たに赴任した青山士の指揮により直ちに補修工事を開始し自在堰は撤去され、(旧)可動堰の工事が進められた。1930年(昭和5年)8月20日に洪水の危機が迫り、工事の主任技官の宮本武之輔が下流域の洪水を回避するため仮締切堤防を独断で破壊する事態に至ったが、工期を遅らせることなく1931年(昭和6年)6月20日に延べ124万人が動員された(旧)可動堰が完成し補修工事が完了[13]。漸く安定した運用が可能となった。

1947年(昭和22年)10月10日、県内に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、視察先の一つに選ばれた[14]大河津分水公園に保存される旧洗堰(2020年4月)

1996年平成8年)には本流側の堰である洗堰の更新工事に着手し、2000年(平成12年)5月29日に完成。使用されなくなった旧洗堰は産業遺産として国の登録有形文化財に登録された。

2003年(平成15年)より可動堰の改築事業に着手し、2011年(平成23年)11月に完成、通水式が行なわれた(詳細は大河津可動堰を参照)。

2015年度(平成27年度)からは、2032年度(令和10年度)までの計画で「大河津分水路改修事業」が行われている。渡部橋から河口までの3.3 kmの事業区間において、河口左岸の山地部掘削、第二床固の改築、低水路拡幅や、野積橋の架け替えなどが進められている[4]


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