大河内傳次郎
[Wikipedia|▼Menu]
俳優へ

1898年(明治31年)2月5日福岡県築上郡岩屋村字大河内(現・豊前市大河内)に、父・晋と母・アキの五男として、9人兄妹(5男4女)の8番目に生まれる[5][注釈 1]。大邊家の先祖は中津大江郷の藤原孝範で、代々岩屋村で医者をしていた[7]。父はその十六代目で、藩主の侍医を勤め、維新後は町医者を開業した人であった[8]。父方の祖父はやはり医者の大辺耕斎で、祖母は小倉藩医だった末松玄洞の六女・シンである[8][注釈 2]。また、母方の祖父は中津藩士で儒学者の大久保麑山(通称は逕三[10][8]である。

小学校卒業後、大分県立臼杵中学校に入学[5]。しかし、1908年(明治41年)5月に父が死去し[8]、家運が傾いたため、すぐ就職のできる商業学校への転校を余儀なくされ、1913年(大正2年)に中学を3年で中退し、大阪に暮らす次兄・弘を頼って大阪商業学校予科に入学した[5][11]。同校では剣道部に入り、学業とともに剣道に精を出した[5]1915年(大正4年)に本科に進み、1918年(大正7年)に卒業[11]神戸高等商業学校に受験するが失敗し[5]、弘の経営する日光社[注釈 3]で会計部長として働いた[11]。やがて日光社の取引先である明治屋の仕入部に勤めるが、1923年(大正12年)9月1日関東大震災で会社を辞めて引き上げ、再び日光社に勤めた[5][14]

同年、劇作家を志望して倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に第二期生として入校する[5]。もちろん脚本家志望だったが、倉橋に「脚本を書くにしても俳優の体験も必要だ」と言われたことがもとで俳優に転向し、翌1924年(大正13年)4月に大阪市中央公会堂での公演『天誅組』などに正親町勇の名で出演した[5]1925年(大正14年)5月、研究生は新民衆座の名で帝国大学で野外劇を公演し、大河内も室町次郎の名で出演した[5]

同年、聯合映画芸術家協会設立第2作で、新民衆座の出演で製作した衣笠貞之助監督の『弥陀ヶ原の殺陣』に座員の一人として、目明し紋治役で出演。原作は大河内が西方弥陀六の筆名で書いた四幕の舞台脚本『若き日の忠次』である[5]。撮影は新民衆座が宝塚中劇場に出演中の6月に行われたが、これを終えると東上し、7月1日に倉橋の第二新国劇の旗上げに参加。第1回公演の『天誅組』で代官所用人・木村裕次郎役、『愛宕の義憤』で藤倉軍平役を演じて早くも注目された[5][15]。さらに同年には『愛宕の義憤』を脚色した高松プロダクション製作の『義憤の血煙』で2度目となる映画出演をし、舞台と同じ藤倉軍平を演じた。その後は金井修、西村実、倉橋信雄とともに第二新国劇の四天王と呼ばれ、『次郎長と石松』の次郎長、『若き日の忠次』の日光の円蔵などを得意とした[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:89 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef