大正
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男性はモボ)が登場した[10]

大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。
護憲運動と政治「護憲運動」、「大正政変」、および「大正デモクラシー」も参照1913年(大正2年)2月5日、尾崎行雄桂内閣弾劾演説(大正政変) 1913年(大正2年)2月5日、桂太郎首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は桂首相を激しく糾弾した。1920年(大正9年)、赤軍の攻撃により燃え落ちた日本領事館(尼港事件) ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。

1911年明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。

1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で承認されなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった[11]

立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。

桂のあとは、薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入を巡る海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した[12]

これを見た山縣有朋元老は庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスドイツ帝国に宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島山東省南洋諸島の一部を占領した[13]。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。

続く寺内政権では、袁政権の後継となった北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約、イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。

寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった[14]

政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。原敬

民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会総裁の原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣である原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。

しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け[15]、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。

続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、高橋内閣は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った[16]

加藤の病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、虎の門事件の責任を取り総辞職に追い込まれた[16]


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