大正
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一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった[39]
学術研究史

西田幾多郎などの京都学派が学問の主流だった。東洋史では内藤湖南が唱えた唐宋変革論が盛んに論議された。1915年(大正4年)に北里柴三郎設立の北里研究所が設立された。1917年(大正6年)に財界からの寄付金と国庫補助金、皇室下賜金などのを財源に、半官半民財団法人として理化学研究所が設立された。その他航空研究所(東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・金属材料研究所本多光太郎の提案で東北帝国大学に設立)・地震研究所(関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。
大正文学史

文学界には新現実主義芥川龍之介耽美派谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤志賀直哉人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した[40]

出版業界においては1冊1の「円本」が爆発的に売れた[41]1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民藝運動を提唱した[42]

大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。
社会問題
社会事業

社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。
医療衛生問題

東京府大阪府などの都市部で上水道が普及した。明治期まで非常に多かった乳児死亡率が大正期に減少した。世界中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、島村抱月大山捨松、皇族では竹田宮恒久王が死去するなど約39万人の日本人が死亡した[43]
教化総動員運動

また、1919年(大正8年)には第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
労働運動

こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。

鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した[44]
部落解放運動

大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。

明治期に四民平等となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の皮革産業などの生業を失い貧困層となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。西光万吉阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された[45]
女性解放運動大正時代の女学生

女性の解放が叫ばれ、ウェートレスデパートの店員・バスガール・電話交換手劇場の案内人・美容師事務員和文英文タイピスト通訳保母看護婦医師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。

普通選挙運動の対象が男性のみであったことから、女性の地位向上を目指す女性運動家が出現し[46]新婦人協会が設立された。また、高等女学校大学へ進学する女子生徒も増えた[10]
朝鮮併合問題

三・一運動によって朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体朝鮮半島近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。
大正仏教運動

西洋思想の影響を受けて仏教が近代化し、仏教思想と西洋哲学を統合する仏教近代化政策が実施された。僧侶の参政権運動が明治末期から大正期かけてあった。僧侶の政治活動が盛んで妹尾義郎新興仏教青年同盟を結成した。仏教関係の政治団体が盛んに社会運動を行うが昭和戦前期に軍部によって弾圧された。東京帝国大学でインド哲学の専門学科が1917年(大正6年)に開設された。井上円了を中心に仏教の迷信を否定する妖怪研究があった。1924年(大正13年)に大正新脩大蔵経の編纂が開始された。[47]
年表
1912年(大正元年)
7月30日明治天皇崩御、皇太子嘉仁親王が第123代天皇に践祚。


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