大正
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

カレーライスとんかつコロッケは大正の三大洋食と呼ばれた[26][27][28][29][30][31][32]。特にコロッケは益田太郎冠者[33]作詞の楽曲のコロッケの唄 (1917年(大正6年)にヒット)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高騰対策として原敬内閣は積極的にパン代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理中華そばの普及や和食復権運動があった[34]ロシアパンロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人によって紹介されて広まった[35]1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達した。アイスクリーム・パン・チキンライスコーヒーラムネ紅茶サイダービールキャラメルチョコレートなど洋食品が普及した[36]喫茶店レストランが増加した。昭和一桁にかけて、麺類缶詰類など簡易食品が発達した[37]
ファッションモガ(1923年)

女性の間で洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われた。女学生に制服が使用された。男子はセルのが良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の男女など、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である[38]。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった[39]
学術研究史

西田幾多郎などの京都学派が学問の主流だった。東洋史では内藤湖南が唱えた唐宋変革論が盛んに論議された。1915年(大正4年)に北里柴三郎設立の北里研究所が設立された。1917年(大正6年)に財界からの寄付金と国庫補助金、皇室下賜金などのを財源に、半官半民財団法人として理化学研究所が設立された。その他航空研究所(東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・金属材料研究所本多光太郎の提案で東北帝国大学に設立)・地震研究所(関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。
大正文学史

文学界には新現実主義芥川龍之介耽美派谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤志賀直哉人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した[40]

出版業界においては1冊1の「円本」が爆発的に売れた[41]1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民藝運動を提唱した[42]

大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。
社会問題
社会事業

社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。
医療衛生問題

東京府大阪府などの都市部で上水道が普及した。明治期まで非常に多かった乳児死亡率が大正期に減少した。世界中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、島村抱月大山捨松、皇族では竹田宮恒久王が死去するなど約39万人の日本人が死亡した[43]
教化総動員運動

また、1919年(大正8年)には第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
労働運動

こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。

鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した[44]
部落解放運動

大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。

明治期に四民平等となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の皮革産業などの生業を失い貧困層となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。西光万吉阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された[45]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:154 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef