大正
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しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け[15]、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。

続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、高橋内閣は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った[16]

加藤の病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、虎の門事件の責任を取り総辞職に追い込まれた[16]。続いて貴族院を母体とした清浦内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会革新倶楽部政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相を務めるのが風習化した(憲政の常道[16]

加藤内閣は、宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団豊橋陸軍師団岡山陸軍師団久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車自動車航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校(現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした[17]

1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず25歳以上の成人男子全員に選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった[18]。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように「革命の発火点」になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった[19]。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮台湾樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では、日ソ基本条約を結んで世界史上初の社会主義国家ソビエト連邦との国交を樹立した[16]

同年12月25日に大正天皇が47歳で崩御し、その長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が25歳で践祚し、15年程続いた大正時代は終わり、63年間に及ぶ昭和の時代へと突入した。
第一次世界大戦と景気「大戦景気 (日本)」、「戦後恐慌」、および「第一次世界大戦下の日本」も参照新渡戸稲造

1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本とアメリカ合衆国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業造船業製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国との交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する[20]

しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失った。さらに関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

パリ講和会議では、「人種差別撤廃案」を主張し、大多数の国の支持を得たがアメリカ、イギリスオーストラリアなどの反対によって否決された。当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランスイタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟常任理事国となる。国際連盟事務次長には新渡戸稲造が就任している。しかしドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土領海の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなった。
震災復興「関東大震災」も参照後藤新平

1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が生じた[21]。この未曾有の大災害に首都東京は甚大な損害を受ける[21]。震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、第2次山本内閣が成立した。新内閣の内務大臣となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。


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