なお、「大正天皇実録」によれば、明治に代わる新元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により大正に決定した。
森鴎外が『元号考』の執筆にあたり、賀古鶴所に宛てた書簡で「『大正』はベトナムで使用があり、御幣を担ぐわけではないが中国では『正』の字の元号を嫌う。『正』の字は『一而ニシテ止ル』と読めるので、『正』の字を付けて滅びた例を調べるべきなのに不確認である」と不満を述べている[4]。 大正時代(1912年-1926年)は、大正天皇の在位した期間を指している。 日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年?大正15年の15年間で、期間は1912年?1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。 大正年間には、2度[5]に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄・犬養毅ら[6]がその指導層となった。 大正デモクラシー時代は1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する原敬(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。 原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。 この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。 1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義・共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義[7]や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。 1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。明治時代を見直す機運から明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が大正9年(1920年)11月1日創建された[8]。 1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。放火デマや鮮人差別意識で自警団が結成及び組織されて関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。後藤新平による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、山本権兵衛元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。 日本も連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。 大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界して、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった[9]。 国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。
概要