大正天皇
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しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され[注釈 6]、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。そこで威仁親王は自分の役割は終わったとして、1903年(明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。明治天皇は即答を避けたが、威仁親王の体調が悪化したこともあり、同年6月に東宮輔導を免じられた[59]。その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、和歌山・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した[60]。なお、これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことはこれまでなかったことであり、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった[61]

日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、皇太子が出征することはかつての日本で始めてのことであり、なれない現場の指揮が混乱するとの桂太郎首相や寺内正毅陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった[62]
韓国訪問1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子・嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王(李垠)、皇太子・嘉仁親王、韓国皇帝・純宗、有栖川宮威仁親王『遠州洋上作』
夜駕艨艟過遠州
満天明月思悠悠
何時能遂平生志
一躍雄飛五大洲[63]

皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でロンドンベルリンを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。また『世界一周唱歌』が愛唱歌であった。しかし、皇太子の洋行は日本の歴史上かつてなかったことであり、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった[64]

1907年(明治40年)9月、伊藤博文韓国統監は、純宗の即位を機に日韓親善を名目として、英親王李垠が日本に留学し、代わりに皇太子が大韓帝国を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が義兵運動で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した[65]

皇太子には威仁親王のほか、東郷平八郎桂太郎前首相、花房義質宮内次官らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、宇品港から戦艦香取に乗船、10月16日に仁川に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで漢城に滞在し、韓国駐箚軍司令部、倭城台公園(現・南山公園)、昌徳宮景福宮などを巡ったほか、統監官邸で高宗と面会した。10月20日に漢城を出発、鎮海の視察を経て帰国[66]。このとき皇太子は李垠を気に入り、日本に留学した後に朝鮮語の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた[67]

1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した[68]。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県[69][70]、1911年8月から9月に北海道[71]、1912年に山梨県を訪れ、これで沖縄県を除く全国を訪問したことになった[72]

1909年(明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付となり、1910年(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。また、御用掛の福島安正松石安治から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている[73]
天皇即位大正天皇の肖像、1912年即位礼当日の京都御所大正4年の石版画「御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀」(尚美堂・田中良三)

1912年7月29日夜、明治天皇が崩御[注釈 7]。皇太子は7月30日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元した[75]。8月1日に朝見式が行われたが、出席した財部彪海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に言葉に詰まり、これを見て情けないと涙を流す侍従(米田虎雄)もいたという[76]

11月には貞明皇后とともに伏見桃山陵を参拝。京都へ向かうお召し列車の中で大正天皇は原敬内務大臣を呼び雑談をするが、知識が豊富な原は、以後も行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる[77]

即位礼大嘗祭は当初、1914年(大正3年)11月に行う予定であったが、同年4月に昭憲皇太后が崩御したため1年延期された。1915年(大正4年)11月10日に京都御所で即位礼紫宸殿の儀、11月14日から15日にかけて大嘗祭、11月16日と17日に二条離宮で各国の王族や要人をはじめ、皇族、文武高官、有爵位者に加え、外国大使夫妻なども招かれ大規模であり二日間に渡って一日目は伝統的な日本様式と二日目は和洋折衷をモチーフにしたフランス様式と異なる構成を催した大饗の儀(大正大饗)が盛大に行われた[78][79][80][81][注釈 8]。大正天皇自身は即位礼の準備委員長である原敬に、儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていたがほとんど無視され[84]貴族院書記官長柳田國男が莫大な労力と経費をかけて前代未聞であると評した儀礼が行われた[85]

大正天皇の即位により天長節は8月31日となった[86]が、夏季の8月は行事を行うには猛暑であるため、1913年(大正2年)に10月31日が「天長節祝日」に定められ、以後、祝賀行事は10月31日に行われるようになった[87][88]
政治能力の不安「大正政変」も参照

大正天皇の政治力は即位前から不安視されていた。明治天皇崩御直前の1912年(明治45年)7月26日に、徳大寺実則内大臣兼侍従長と渡辺千秋宮内大臣が美子皇后に面会し、大正天皇を皇后と伏見宮貞愛親王で補佐することを依頼[89]。しかし、皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った[90]。また崩御直後には、西園寺公望首相が元老山縣有朋と共に謁見し、西園寺が大正天皇へ政事についての苦言を呈し、天皇が「十分に気を付ける」と返答するやり取りがあった[91]

しかし1912年(大正元年)11月、大正天皇は桂太郎内大臣に突然元帥任命を打診する。


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