大正天皇
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1900年(明治33年)2月11日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表された[47]が、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった。しかし3月に侍医や伊藤博文らによる会議で、皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし[注釈 4]、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された[48]

挙式は皇居賢所で神式により行われた[49][注釈 5]。皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった[51]。結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、東京市内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「東京国立博物館表慶館」やサンフランシスコの日本人移民から贈られたアメリカ製の電気自動車もあった[52]

明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王

明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む九条節子

皇太子夫妻は5月23日から6月7日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、伊勢神宮神武天皇陵、泉涌寺などを結婚報告のため参拝した。この間、皇太子は嵐山桂離宮京都帝国大学などを訪問し、京都帝大附属病院では患者に直接語り掛けている[53][54]
国内各地を行啓1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従

東宮補導の有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した[55]

第一回目は1900年10月から12月にかけて行われ、福岡佐賀長崎熊本各県と下関を行啓した。その後、岡山愛媛香川県を訪問する予定であったが、皇太子は途中滞在した兵庫県舞子で体調を崩し、静養の後に帰京した[56]。続いて1902年5月から6月に、東北地方の見学として、群馬長野新潟茨城各県を行啓。当初はさらに東北6県と栃木県も訪れる予定であったが、皇太子が体調を崩したため中止となった[57]

威仁親王の目論見通り、これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され[注釈 6]、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。そこで威仁親王は自分の役割は終わったとして、1903年(明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。明治天皇は即答を避けたが、威仁親王の体調が悪化したこともあり、同年6月に東宮輔導を免じられた[59]。その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、和歌山・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した[60]。なお、これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことはこれまでなかったことであり、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった[61]

日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、皇太子が出征することはかつての日本で始めてのことであり、なれない現場の指揮が混乱するとの桂太郎首相や寺内正毅陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった[62]
韓国訪問1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子・嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王(李垠)、皇太子・嘉仁親王、韓国皇帝・純宗、有栖川宮威仁親王『遠州洋上作』
夜駕艨艟過遠州
満天明月思悠悠
何時能遂平生志
一躍雄飛五大洲[63]

皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でロンドンベルリンを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。また『世界一周唱歌』が愛唱歌であった。しかし、皇太子の洋行は日本の歴史上かつてなかったことであり、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった[64]

1907年(明治40年)9月、伊藤博文韓国統監は、純宗の即位を機に日韓親善を名目として、英親王李垠が日本に留学し、代わりに皇太子が大韓帝国を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が義兵運動で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した[65]

皇太子には威仁親王のほか、東郷平八郎桂太郎前首相、花房義質宮内次官らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、宇品港から戦艦香取に乗船、10月16日に仁川に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで漢城に滞在し、韓国駐箚軍司令部、倭城台公園(現・南山公園)、昌徳宮景福宮などを巡ったほか、統監官邸で高宗と面会した。10月20日に漢城を出発、鎮海の視察を経て帰国[66]。このとき皇太子は李垠を気に入り、日本に留学した後に朝鮮語の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた[67]

1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した[68]。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県[69][70]、1911年8月から9月に北海道[71]、1912年に山梨県を訪れ、これで沖縄県を除く全国を訪問したことになった[72]

1909年(明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付となり、1910年(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。また、御用掛の福島安正松石安治から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている[73]
天皇即位大正天皇の肖像、1912年即位礼当日の京都御所大正4年の石版画「御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀」(尚美堂・田中良三)

1912年7月29日夜、明治天皇が崩御[注釈 7]。皇太子は7月30日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元した[75]


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