趣味は当時としては極端な洋風で、和服より洋服、日本酒よりワインを好んだ[175]。娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のため自転車に乗り、三菱財閥から献上されたヨット「初加勢」でクルージングを楽しんでいた[176]。
乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いている[177]ほか、名和長憲らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった[178]。
また愛煙家で、自分が吸うたばこの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている[179]。また、梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり[179]、九州行啓時に鉄道に同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある[180]。
皇太子時代は非常に早足で、行啓等では侍従や先導する知事が付いていけなくなることもあった[181][182]。
詩人として大中寺観梅の石碑『西瓜』
濯得清泉翠有光
剖来紅雪正吹香
甘漿滴滴如繁露
一嚼使人神骨涼[183]
三島中洲の指導を受け漢詩を始めた大正天皇は和歌より漢詩を好み、昭陽の雅号を名乗った[184]。1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している[注釈 22]。そして、全作品が宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録されており[185]、うち251首は一部添削を経て、1948年(昭和23年)に『大正天皇御製詩集』として公刊された[186]。
漢詩のうち1129首が最も創作しやすい七言絶句で、作風は平易であるというのが一般的評価である[187]。巡啓先の光景や日々の生活のほか八甲田雪中行軍遭難事件といった出来事などを詩に詠んでいる[188]が、古田島洋介は「確実に文学的価値があるのは、1914年(大正3年)作の『西瓜』のみ」としており、古川隆久は「大正天皇は素人詩人の部類に入る」とみている[187]。石川忠久は「大正天皇の詩は未完成で、せっかくの才能が十分に磨かれずに終わった」と評している[189]。
漢詩の詩碑は2か所に建てられており、一つは富山県富山市の呉羽山山頂にある「登呉羽山」の碑、もう一つは静岡県沼津市大中寺にある「大中寺観梅」の碑である[190]。
一方、和歌は生涯で少なくとも465首を詠んだとされるが、(父親)明治天皇の約9万首、(長男)昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし、古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している[191]。 明治天皇は幼少時の嘉仁親王の習字の清書を見たがったり、読書の進度を気にしたり、柳原愛子を通じて指示をするなど教育に干渉したが、教育掛の湯本武比古に拒絶され、以降は口出しを止めた[192]。皇太子になってからも明治天皇の心配は変わらず、年数回、皇太子の側近に日誌を提出させ、健康状態や生活、勉強の状況などをチェックしていた。しかし皇太子にとってはこれが重荷となり、皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった[193]。これは明治天皇のしっかり教育したいという意志に基づいて行っていたと考えられている。また、大正天皇は皇子に制約を課したりはあまりしなかったが明治天皇はこれをよく思わなかったという逸話もある。 さらに、明治天皇は皇太子が「洋風」を好み基礎学問が不十分ながらフランス語を非常に好むことに頭を悩ませたほか[194]、その軽率な言動を不快に思っており、1898年(明治31年)に皇太子が東宮職員の不出来を挙げ「全員更迭せよ」と周囲に発言した際には、侍従職幹事の岩倉具定を通じて叱責している[195]。 夫妻で側近とともにダンスを楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた[196]。しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の鍋島伊都子[注釈 23]を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京[注釈 24]したこともあった[196][199]。そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長の木戸孝正に嘆かれている[200]。 公式に側室制度(一夫多妻制)は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった[201][注釈 25]。しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした[203]。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、徳富蘆花がその日記に遺している[204]。 貞明皇后との間には以下の4人の皇子をもうけた(#詳細)。迪宮裕仁親王(昭和天皇)、淳宮雍仁親王 (秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)である[205]。 伝統に従い、裕仁親王と雍仁親王は誕生してすぐ、川村純義邸に預けられたが、川村が1903年に死亡すると、裕仁親王と雍仁親王は仮東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。その後は、皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄って鬼ごっこに加わったり、少なくとも週一回は家族団欒の時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した[206]。家族団欒の場では、皇后が弾くピアノに合わせて子供たちと軍歌や唱歌を歌ったりした[207]。 昭和天皇は大正天皇生誕100年を翌年に控えた、1978年(昭和53年)12月4日の記者会見で、自身の父親である大正天皇について、「幼いころ一緒に将棋を指したり歌を歌った思い出があること」と、「『詩文を良くし記憶力が良かった』と母から聞いた」とし、「本当に天皇として立派な方であった」と語っている[208]。
人間関係
明治天皇(父)
貞明皇后(妻)
4人の息子たち
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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