大正天皇
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同じく臨時駅の東浅川仮駅[注釈 15]まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた[149][150][注釈 16]

新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開されたが好評で、葬場殿は2月9日から3月7日まで、多摩陵は2月13日から4月4日まで公開期間が延長された。葬場殿の参拝者はのべ250万人、多摩陵の参拝者はのべ89万8千人にのぼった。多摩陵には売店や料亭まで建ち、省線京王電気軌道では臨時列車を走らせた。さらに京王電気軌道は御陵前駅に至る御陵線を建設したが、開業した1931年(昭和6年)には参拝ブームは下火となっており、まもなく閑散となった[152]

現在、毎年12月25日に宮中で大正天皇例祭が行われている[153]
死後の評価と「遠眼鏡事件」1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇

国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、若槻礼次郎首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた[154]。とは言え明治天皇とは異なり、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった[155]

そして社会に広く定着したのは、「大正天皇が帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる[156]「遠眼鏡事件」に代表されるような「大正天皇精神病者説」であり、その風説は少なくとも昭和初期には一般大衆の間で広まっていた[157]1944年(昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男が不敬罪で捕まっている[158]ほか、1921年に小学2年生であった丸山眞男は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを1989年(平成元年)のエッセイで回想している[159]

遠眼鏡事件が公然と語り出されるのは戦後であり、近代天皇制の呪縛から解放された後の昭和30年代に集中している[160]。一つは「文藝春秋1959年(昭和34年)2月号掲載の無署名[注釈 17]記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、黒田長敬侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた[162]。また、元女官の山川三千子[注釈 18]は、1960年(昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に遠眼鏡として覗いた光景を、姑の弟である山川健次郎が目撃した話をしていたと記している[164][165]

この遠眼鏡事件については諸説あり、歴史学者古川隆久は、決定的な史料はなく真相は不明であるが、大正天皇は精神疾患ではないので風説はいわれのない中傷であると主張している[166]。そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の坂東登女子[注釈 19]は、あるとき勅書が本来とは逆向きに巻いてあったため、その次の折に巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認した、という話を大正天皇から直接聞いたと語っている[168]
皇子

妻の貞明皇后との間に4人の皇男子をもうけた。現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日GHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家皇籍離脱した際、昭和天皇とその弟宮の三男子及び各妃とその子女・子孫が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族である者(徳仁明仁・全ての親王内親王女王)の最近共通祖先となっている。

貞明皇后は次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している[169]

御称号および身位読み生年月日没年月日続柄備考
迪宮裕仁親王みちのみや ひろひと1901年(明治34年)
4月29日1989年(昭和64年)
1月7日(満87歳没)第一皇男子
(第1子)良子女王久邇宮家)と結婚(→香淳皇后)。
摂政1921年(大正10年)11月25日
? 1926年(大正15年)12月25日
昭和天皇(第124代天皇)
子女:2男5女(7人)
淳宮雍仁親王あつのみや やすひと1902年(明治35年)
6月25日1953年(昭和28年)
1月4日(満50歳没)第二皇男子
(第2子)松平節子と結婚(→雍仁親王妃勢津子)。
雍仁親王(宮号:秩父宮
子女:無し。
光宮宣仁親王てるのみや のぶひと1905年(明治38年)
1月3日1987年(昭和62年)
2月3日(満82歳没)第三皇男子
(第3子)徳川喜久子と結婚(→宣仁親王妃喜久子)。
宣仁親王(宮号:高松宮
断絶した有栖川宮家の祭祀を継承。
子女:無し。
澄宮崇仁親王すみのみや たかひと1915年(大正4年)
12月2日2016年(平成28年)
10月27日(満100歳没)第四皇男子
(第4子)高木百合子と結婚(→崇仁親王妃百合子)。
崇仁親王(宮号:三笠宮
子女:3男2女(5人)
1921年(大正10年)撮影、4人の皇子。
左から皇太子裕仁親王(長男)、崇仁親王(四男)、宣仁親王(三男)、雍仁親王(次男)。
人物像

皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり[170]、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり[171]、当時上品な場所でないと見られていた[注釈 20]蕎麦屋に入る[172]など、気軽で奔放な性格であった[注釈 21]梨本伊都子は『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している[174]


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