「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、続いて腸チフス、胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜御宸襟を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随て陝隘とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、之に加ふるに御発語の御障碍あらせらるる為め、御意志の御表現甚御困難に拝し奉るは洵に恐懼に堪へざる所なり」 その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。日課として散歩を行ったり、具合のいい日は侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた[122]。 1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の饗宴に出御せず[123]、1925年(大正14年)5月10日に行われた銀婚式も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで[124]、午餐会に臨御することができなかった[125]。12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後は発熱が続く[126]。 翌1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし[127]、ほぼ歩行が不可能になった[124]。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホーム[注釈 13]から列車に乗り、葉山御用邸へ移住した[128]。 葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった[129]。12月1日には生母の柳原愛子が東京都白山の大乗寺
病状の悪化
崩御1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪
天皇危篤との報が東京に届くと、若槻礼次郎総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた[133]。全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ[134]、ラジオは12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道[135]。12月14日から崩御までの宮内省発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した[136]。
これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した[134]。また、新聞社も葉山に記者数十人を送り込んで報道体制をとった[135]。ウィキソースに大正天皇崩御の告示があります。
病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の1926年(大正15年/昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御[137][138]。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分に崩御が発表された[139]。宝算47。
これに伴いただちに、摂政であった長男の皇太子裕仁親王が皇位継承し(昭和天皇)、第124代天皇に践祚(即位)した。このとき、貞明皇后の発願で、大正天皇の供養のため「南無妙法蓮華経」の題目を模写した紙が多数制作されている[140]。
葬儀当時の多摩陵多摩陵
1927年(昭和2年)1月29日に「大正天皇(たいしょうてんのう)」と追号され[141]、大喪が2月7日から8日にかけて新宿御苑を中心に行われた[142]。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計6千人、全長6キロメートルという壮大なもの[143]で、沿道には150万乃至300万人の市民が集まったといわれ、葬列はラジオで実況放送された[144][注釈 14]。葬場殿の儀(葬儀)は午後9時から午後11時まで行われ、内外の高官約7千人が参列した[146]。その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時で設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、昭和天皇名代の秩父宮雍仁親王らを乗せ出発[147]。同じく臨時駅の東浅川仮駅[注釈 15]まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた[149][150][注釈 16]。
新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開されたが好評で、葬場殿は2月9日から3月7日まで、多摩陵は2月13日から4月4日まで公開期間が延長された。葬場殿の参拝者はのべ250万人、多摩陵の参拝者はのべ89万8千人にのぼった。多摩陵には売店や料亭まで建ち、省線や京王電気軌道では臨時列車を走らせた。さらに京王電気軌道は御陵前駅に至る御陵線を建設したが、開業した1931年(昭和6年)には参拝ブームは下火となっており、まもなく閑散となった[152]。
現在、毎年12月25日に宮中で大正天皇例祭が行われている[153]。
死後の評価と「遠眼鏡事件」1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇
国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、若槻礼次郎首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた[154]。とは言え明治天皇とは異なり、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった[155]。