大正天皇
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しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本[注釈 10]はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった[97][98]。また、同年には波多野敬直宮内大臣が元老井上馨に「(大正天皇が元老に対して)何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と告げている[99]

1915年(大正4年)、第2次大隈内閣大浦兼武内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月に大隈重信首相は「事件の責任を取る」として全閣僚の辞表を天皇に提出した。大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している[100]。大隈は翌1916年(大正5年)6月に内閣総辞職の意を奏上し、後継に加藤高明寺内正毅を推薦し、かつての隈板内閣のような内閣を作ろうとした[101]。大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。面子を潰された山縣は、今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せ、筋を通すよう諫言した。その後、大隈は「後任に加藤高明を推薦する」とした辞表を提出し、元老に諮問しないよう働きかけたが、大正天皇は元老会議の推薦に基づき寺内を後継首相に任命した[102]。12月には山縣が枢密院議長辞任の意を内奏した。これは以前に何度も行われた形式的なものであり、却下されることを前提とした山縣の政治的パフォーマンスであった。しかし大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。このため大正6年(1917年)4月14日には山縣が実際に枢密院議長の辞表を提出する事態となり、5月2日に寺内首相の取りなしで留任の勅語が下ったことで、ようやく事態は収拾された[103]

1918年米騒動(大正7年)の際には日光田母沢御用邸で避暑中であったが、皇室財産から政府を通じて各府県に300万円(現在の60億円相当)を下賜した。ただし、天皇が金銭だけ支出して避暑を続けることに世間の批判があったことから、政府の要請を受けて急いで東京へ帰っている[104]
皇太子裕仁親王の摂政就任皇太子時代の裕仁親王大阪での陸軍特別大演習に向かう大正天皇(1919年秋撮影)

大正天皇は1918年(大正7年)末に風邪を引き、帝国議会開会式を欠席。翌1919年(大正8年)正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する[105]。同年10月の海軍特別大演習では勅語を軍令部長が代読した[106]。そして11月に兵庫県・大阪府で行われた陸軍特別大演習への参加が最後の東京の外への公式行幸となった[107]。12月の帝国議会開会式は、勅語朗読の練習をおこなったものの、うまくいかなかったため、前日になって出席が中止された[108]

1920年(大正9年)3月30日、大正天皇の「体調悪化」が初めて宮内省から公表された。ただし、神経痛などとして言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった[109]。大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、「普通である」と考えていた[110]。その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への臨席などは皇太子裕仁親王や貞明皇后が代行することになる[111]。同年6月に松方正義内大臣が摂政設置を原敬首相に提起したが、原は「誰もが納得する病状でなければ摂政設置は困難であり、しばらく様子を見たほうが良い」と判断した[112]

1920年(大正9年)から1921年(大正10年)2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐる宮中某重大事件が発生するも無事解決したのを受けて、1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だった欧州訪問に出発した[113]。この頃の大正天皇は、同年7月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。また前年の出来事や身近な人物を忘れるなど記憶喪失状態に陥るなどの状態であった[114]。ウィキソースに裕仁親王の摂政任命の詔書があります。

1921年(大正10年)9月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。10月4日には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされ、牧野伸顕宮内大臣により皇族への根回しが行われた[115]。11月4日に原首相が暗殺されたが、11月22日には松方内大臣と牧野宮内大臣が大正天皇に拝謁し、摂政設置について報告と了解を求めようとした。しかし大正天皇は意思疎通できない状態であった。そして11月25日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した[116][117][注釈 11][注釈 12]。同日、大正天皇は摂政が執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗し、また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろう」と何度も話しかけたりしていた[121]。同日付の東京朝日新聞夕刊に、以下の宮内省発表「聖上陛下御容体書」が掲載された。

 「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、続いて腸チフス胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜御宸襟を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随て陝隘とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、之に加ふるに御発語の御障碍あらせらるる為め、御意志の御表現甚御困難に拝し奉るは洵に恐懼に堪へざる所なり」
病状の悪化

その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。日課として散歩を行ったり、具合のいい日は侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた[122]

1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の饗宴に出御せず[123]1925年(大正14年)5月10日に行われた銀婚式も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで[124]、午餐会に臨御することができなかった[125]。12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後は発熱が続く[126]

1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし[127]、ほぼ歩行が不可能になった[124]。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホーム[注釈 13]から列車に乗り、葉山御用邸へ移住した[128]

葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった[129]。12月1日には生母の柳原愛子が東京都白山の大乗寺で行われた「聖上御脳御平癒の祈祷」に参加している[130]。12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。この日以降、葉山には皇族や柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ[131]。12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた[132]


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