大正デモクラシー
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1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、同盟国のイギリスアメリカの要請を受けて寺内内閣により第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)7月12日シベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人によるの買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。

そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。
日本初の本格的政党内閣

戦争による格差の拡大により、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた原敬による原内閣が、日本で初めての本格的な政党内閣として9月27日に組織されるに至った。
第二次護憲運動

1923年(大正12年)12月27日に発生した、難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により、当時の第2次山本内閣山本権兵衛首相)は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾が後任の首相に就任した。しかし、清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。

その結果立憲政友会憲政会革新倶楽部護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し普通選挙法が制定され、財産(納税額)によって制限される制限選挙から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、アジアで初の男子普通選挙が実現した。

一方、ロシア革命によって世界初の共産主義国家であるソビエト連邦が誕生、1922年(大正11年)には日本共産党が結党されるなど国民の一部に共産主義思想が広まり、共産主義革命(赤化)や、天皇制及び国家神道の動揺を懸念した政府は、治安維持法を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。
女性の権利の獲得

明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権をはじめとした女性の権利を求める気運が女性の中から高まっていった。1919年(大正8年)11月に平塚らいてう市川房枝奥むめおらが設立した新婦人協会ガントレット恒子久布白落実らが1921年(大正10年)に設立した日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が女性運動を展開した。

大正デモクラシー中は女性参政権が実現することはなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正が1922年(大正11年)に行われたり、1933年(昭和8年)には女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。

また1931年(昭和5年)には婦人参政権を条件付で認める法案がついに衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。結局、日本における女性参政権の実現は太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20年)になった。翌年の1946年(昭和21年)(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。
日本の植民地での動き

1919年(大正8年)には朝鮮三・一運動が発生した。その後も朝鮮人の権利を求める運動は続いたが、日本側の民本主義者とは温度差があった[3]

1920年代初めから1930年代半ばにかけて、台湾の住民による台湾議会設置運動が行われた。
昭和へ

1931年(昭和6年)の満州事変の時期になると大正デモクラシーのエネルギーは排外主義・戦争支持へと流れていった[3]。そこには満州事変に熱狂する大衆の「発見」という現象があった[5]
後世の評価

大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い[6]。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。

太平洋戦争末期の1945年7月に、連合国から大日本帝国に対して提示されたポツダム宣言が第10条で「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべき」と言及しており、萌芽はこの当時既にあったことを記す内容となっている。


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