本所区立江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)を経て、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い、1943年7月から千葉県山武郡横芝町に疎開し、横芝国民学校4年に編入。敗戦直後、横芝の自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。1946年、千葉県立成東中学校 (旧制)に入学。1947年、東京両国に再度移った。 「憧れのアメリカ」へ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネ・フランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学第一政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。 大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという[8]。大学中退の理由は、当時の大学は1年次から2年次にかけて教養課程があり、人文科学系や社会科学系に加えて自然科学系科目も必修だったのだが、苦手な理数系科目での単位取得が望めなかったためである。後に「早稲田大学を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりにつながっている。 早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活動していた。なお、大学在学中に俳人としての活動もしていた。「巨泉」という芸名は俳号だが、戦前の郷土玩具画家である川崎巨泉とは関係ない。アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」とした。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。また1956年頃には、主にラジオ・テレビの音楽番組評論をする時のペンネームとして「池間 仙也」の名前も使っていた[2][注 3]。 最初の妻であるマーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤務するも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のタレントとして人気を得る。この方面では、同じく放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、彼と2人で日本テレビ『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。 放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にもかかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった[9]。 1960年代から1980年代にかけ、『11PM』[注 4]や、TBS『クイズダービー』、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のパーソナリティを務めた。その後は1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板して、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。 特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。 このようにタレントを呼び捨てにしたり、馴れ馴れしく呼ぶスタイルの司会者は当時では珍しく、タレントを呼び捨てで呼ぶのは巨泉にとって早大・ジャズ業界・司会業の先輩にあたる小島正雄の「ステージの上にいるものはギャラをもらって商売してるんだ。下で見ている人たちは金を払ってきているお客様だ。売っている人間同士が買ってくださるお客に対して「さん付け」で紹介するなんて、それこそ失礼だと思わないか」という教えを守ったためである[10]。久米宏、タモリ、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助など、後の大物の司会者たちも「久米」「タモリ」「たけし」「さんま」「紳助」と呼び捨てにしていた。そのため、巨泉の功績を知らない若者からは偉い人と勘違いされたこともある。 番組共演者にニックネームを付けるのを得意としていた。『クイズダービー』では、黒鉄ヒロシには「裏切り狸」、篠沢秀夫には「教授」、はらたいらには「宇宙人」、竹下景子には「三択の女王」、常連ゲストの松崎しげるには「クイズの帝王」とそれぞれ付けた。また、『世界まるごとHOWマッチ』では、石坂浩二を本名の武藤兵吉に因む愛称「兵ちゃん」と呼び、ケント・ギルバートには「ネギルバート」(「値切る」と「ギルバート」の語呂合わせ)、チャック・ウィルソンには「ケチャック」(「ケチ」と「チャック」の語呂合わせ)とそれぞれ付けた。このようによく出演者にニックネームを付けて呼ぶというやり方は、前田武彦に倣ったものであった[11]。 同じ『11PM』の司会であった 愛川欽也を筆頭に財津一郎、玉置宏、藤村俊二、前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人らと「昭和九年会」を結成した。 『11PM』ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一、ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。 1973年、カナダのバンクーバーに、日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し、実業家に転進した。 その後、カナダ国内ではバンフとナイアガラに開店したほか、オーストラリアのゴールドコーストとケアンズ、ニュージーランドのオークランドとクライストチャーチ(2011年にクイーンズタウンへ移転)にも展開し、3ヶ国7店舗まで事業を拡大した。
アメリカへの憧れ
ジャズ司会者
芸能界へ
テレビ司会者として
オーケーギフトショップ経営OKギフトショップオークランド店
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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