1912年4月、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、増補途中の1928年2月17日に、自宅で肺炎のため死去した[4]。 『言海』は近代的国語辞典の嚆矢として、後世の国語辞典の模範となった[5]。大槻は「発音」「品詞」「語源」「意味記述」「出典」が必須であるとするが、これにより近代的な国語辞典の体裁が整ったのである[5]。 『言海』執筆の過程で、国学の文法理論を踏まえながら英語に即して日本語の文法を体系づけた[6]。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語の文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された[6]。これは大きな副産物といえるが、「日本語の本態を抑圧した」などの問題点を山田孝雄などから批判されている[7]。 国語調査委員会に所属していた頃に刊行された『口語法』は、同委員会の全国調査を参考にしつつ、当時の口語の規範を示した[8]。その付録の『口語法別記』において大槻が、標準を定めるにあたって歴史的な変遷と方言分布を検証した方法は、後の口語研究の可能性を開拓したとされる[6]。 19世紀?20世紀にかけて、米英仏独伊など「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、米国の『ウェブスター大辞典』、英国の『オックスフォード英語辞典』、フランスのエミール・リトレ 1891年6月23日、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園の紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣・伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した[10]。なお、父・磐渓以来大槻家と親交のあった福澤諭吉も招待されたが、次第書(祝賀会プログラム)で自分の名が、伊藤の下にあるのを見て「私は伊藤の尾につくのはいやだ。学者の立場から政治家と伍をなすのを好まぬ」と、出席を辞退したという[11]。 江戸大槻家仙台大槻家大槻宗家
業績
『言海』の出版とその意義
『言海』完成祝賀会
著書
言海(1889年 - 1891年、全4冊)。ちくま学芸文庫(全1冊の復刻版、2004年)
広日本文典(1897年)
広日本文典別記(1897年)
根岸及近傍図(1901年)
復軒雑纂(1902年)
鈴木広光ほか校注。平凡社東洋文庫(全3巻予定)、第1巻「国語学・国語国字問題編」のみ刊(2002年)
口語法 (国語調査委員会)(1916年)
口語法別記 (国語調査委員会)(1917年)
伊達騒動実録[注 2](1909年、吉川弘文館)。名著出版(上巻(乾ノ巻)1970年2月、下巻(坤ノ巻)1970年3月)
大言海(1932年 - 1937年、全5冊、文彦の没後完成)。新版一冊本(冨山房)
復軒旅日記 (1938年、冨山房百科文庫、大槻茂雄校訂)
家系図[13]
中村英麻呂 大槻文彦 大槻如電 大槻習斎 大槻清廉(11代) 佐々木中沢(娘婿)
中村勝麻呂 幸 大槻清良 大槻清裕(12代)
中村英勝 中村妙子 静 中野好夫 大槻清俊(13代)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ これは江戸言葉であることを見込まれたからだという[1]。
^ 伊達騒動の基本資料となっている[12]。
出典^ a b 大槻文彦 (1928), p. 41.
^ 後藤斉 東北大学文学研究科 『大槻文彦の諸相』
^ 『玄沢・磐渓・文彦』一関市博物館(2022年1月15日)
^ 服部敏良 (2010), p. 67.
^ a b 湯浅茂雄 (2016), p. 90.
^ a b c 湯浅茂雄 (2016), p. 91.
^ 斎藤倫明 (2016), p. 114.