大槻ケンヂ
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人物

東京都立田柄高等学校出身(1期生)、日本デザイナー学院中退、2浪し東京国際大学へ進学後中退。

父、母、兄の4人家族。父は信用組合の理事で支店長をしていた[5]。兄はTVカメラマンの大槻慎一(1964年 - 2012年10月[6][5][7]。父方の伯父は松竹を経てフリーとなった映画監督大槻義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - 2011年12月[8][9]。特に両親は大槻のエッセイにも度々登場しており、その時々で面白おかしくエピソードが披瀝されている。大槻いわく父は「石橋を叩いても渡らない」几帳面な人間で、母は「イー加減」「アバウト」で大らかな人間である。筋肉少女帯が売れ出した頃、ライブに出かける際、母親に「ケンちゃんコロッケ揚げたてだから、食べていきなさい!」と呼び止められたり、父親からは仕事にあぶれても収入が得られるようにと賃貸アパート経営を勧められるなど、家人のおよそロックとはかけ離れた庶民臭さを嘆いている。

アーティスト名の表記を大槻ケンヂとしたのはKENZI&THE TRIPSのケンヂを真似たものである[10]

1970年代から80年代にかけてヒットしたサブカル誌「ビックリハウス」の常連投稿者(ハウサー)だった。当時の年齢は13歳。「ビッグムーン大槻」というペンネームで、「ジャパベン合衆国」というコーナーでは外務大臣の地位を得ていた。

「気弱な文学青年」という自己形容の通り、普段は穏やかでユーモラスだが、議論の際にはストレートな物言いを見せる一面もある。伊集院光のラジオ番組にゲストで呼ばれた際、当時伊集院が心酔していた催眠術に対して生放送中に疑問を呈し、当時の深夜放送界での盟友であった伊集院と数年間の絶縁関係に陥った(後に伊集院とは和解している)。また、「オタク」という言葉が確立する以前、『オールナイトニッポン』のパーソナリティ時代に、今で言うところのアニメオタク達を「アニマー」と名付けて批評したところ、リスナーから反論が寄せられる一幕もあった。

1990年代バンドブームの最中を第一線で過ごした人物として、バンドブーム時代の追っかけギャル達の生態やヴィジュアル系と言われるバンド群に関して、小説やエッセイ、対談などで多く言及している。また自分自身(筋肉少女帯)を「Xは光、筋少は影」などとしてヴィジュアル系の元祖であることも自書やエッセイでほのめかしている。

26歳頃に、タイで食べたオムレツに入っていたマジックマッシュルームがきっかけで心的外傷後ストレス障害に悩まされる[11]森田療法による治療を受け、現在では克服したことを明かしている[12]

快獣ブースカのぬいぐるみを我が子と称して多数所持しており、寝食を共にするほど。特撮ではブースカをモデルにした「文豪ボースカ」という曲を制作、ライブのMCにもボースカ(ブースカ人形)を参加させている。

エッセイなどで臆面もなく「スケベー」と自認する。幼少時に水に濡れてスーツがテカテカになっていたウルトラセブンを観て性に目覚めたと語る。また、第39・40話「セブン暗殺計画」での夕日に照らされる十字架張りされたセブンに勃起したとも告白している[13]。バンド結成以前は女性との縁も皆無で交際のきっかけさえ掴めずポルノ雑誌やビニ本、アダルトビデオで性欲を処理、バンドを結成してインディーズで話題になるまで全くモテなかったと言う。また初体験の相手はデビューしてから彼を取り巻きはじめた『ナゴムギャル』(ナゴムレコードファンの女の子)で、女性の方から接近してきたと主張している。女性遍歴を自著やトークなどにおいて赤裸々に語っており、性経験を題材にしたエッセイ『愛の履歴書』や『バンドマンの恋人になる方法』を著している。また、大槻は童貞時代の性に対する執着と妄想も、熱心に語ってきた。

「物品販売も大事」と悟り、バンド活動と共に販売促進に勤しむ面もある。

容姿を何度か大きく変えており、筋肉少女帯のメジャーデビュー直後までは黒髪を逆立ててメガネを着用していたが[14]、アルバム『猫のテブクロ』の頃からはウェーブをかけた長髪を右へ流して後ろ髪は束ねることが多くなり、筋肉少女帯の活動休止と共に坊主頭にした。また、1988年の終わり頃から、デビルマンを真似たヒビ割れメイクをするようになり、以降の大槻のトレードマークになった[注 2]

当Wikipediaの記載を大槻ケンヂ当人は不本意と考え、一切参考にしてほしくないと思っている[15]

2021年のみうらじゅん賞を受賞した。みうらとはビックリハウスに投稿していた頃からの付き合いであり、とうに受賞しても良いはずであったが「忘れていた」ため、だいぶ年数が経ってからの受賞となった。

趣味/影響/エピソード

サブカルチャーに関心があり、それらに関する多くの小説、エッセイの他に、曲の歌詞にも取り入れられている。

2013年8月には筋肉少女帯の大ファンであるプロレスラー入江茂弘の入場曲「タチムカウ-狂い咲く人間の証明-」を両国国技館で本人の入場に合わせてLiveパフォーマンスを行った[16]

特にUFOに関しては本人もマニアを自称するほど詳しく、一時期は心療内科の医師から「UFO禁止令」を出されたほどであったという。関連書籍も「百冊以上」読んできた識者とも言えるこだわりようだが、本人はUFOのみならず超常現象全体について「単純に「ある」「ない」だけで考えるのは馬鹿げている」「超常現象に関わった人々の人間ドラマ、その数奇さが面白い」という持論がある。

学生時代は昼食を抜いたり学校をサボったりして名画座や「黙壺子フィルムアーカイブ」に通い詰めたほどの映画好きであり、アート・シアター・ギルドアメリカン・ニューシネマといった自身の作風ともリンクする陰鬱なものから、いわゆるB級映画やバカ映画までを幅広く見てきている。

特撮漫画への愛着も深く、自身の創作においても特撮番組のテーマソングを歌ったり漫画を描いたりといった経験があるほか、エッセイでも言及が幾度もなされている。

プロレス古武道を中心とした格闘技ファンでもあり、興行や大会などに足を運ぶ事もある。不安神経症を患ったことをきっかけに心身のリハビリとして[17]実際に極真会館(大山派。当時)で空手を習っていた時期もあるが、上達はしなかったという。ただ、極真会館に在籍したままグローブ着用顔面殴打有りの新空手の試合にチャレンジするなどして、習い事としての格闘技のハードルを下げる活動を福昌堂の雑誌やムックで行った。

小学5年生から読書に目覚め、探偵小説SFを読みふけって育った。この時から江戸川乱歩作品に精通しており、アルバム名や歌詞の中に作品のフレーズを多く引用している他、自らが乱歩に向けた手紙を歌詞の中に入れるなど、大の乱歩ファンとして知られている。自身のファンに向けて、乱歩の短編小説「二銭銅貨」で用いられた暗号を使用してメッセージを書いたことなどもある[18]。作家業においても、エッセイでは怪人二十面相明智小五郎に、明智の妻・文代、小林少年といった、乱歩の代表作『少年探偵団シリーズ』の人物関係などの考察や、それを基にした短編小説を発表している。過去には『世界・ふしぎ発見!』の乱歩特集でミステリーハンターとして出演した他、近年ではNHKの江戸川乱歩作品考察番組への出演(2005年)や、同局『名作平積み大作戦』にてプレゼン(2006年)を行ったりしている。

シャーロック・ホームズに没頭した時期もあり、ホームズが体得していた謎の東洋格闘技・バリツとは、当時のイギリスで教えられていた柔術を取り入れた護身術・バーティツなのではないかという仮説をエッセイ中で述べ、ホームズの子孫とモリアーティ教授の子孫がバリツを駆使して戦う短編小説の発表もしている。

他に文学関係では、中原中也寺山修司などの影響も強く受けており、エッセイでは三島由紀夫谷崎潤一郎澁澤龍彦などの耽美的な作家にも言及している。


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