大槌町
[Wikipedia|▼Menu]
歴史

新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦1582年以降はグレゴリオ暦。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

盛岡藩の港町

戦国時代、当地は周辺地域の有力武将であった大槌氏の支配下であった。大槌氏は九戸政実の乱岩崎合戦南部氏方の武将として活躍した。大槌氏は特産の南部鮭の交易で財を成したが、中央集権化を進める南部利直によって謀反の嫌疑をかけられ、処罰された。大槌氏亡き後、この地は大槌城代が置かれて盛岡藩の管理下となり、その後は大槌代官所(南閉伊代官所)が置かれ、現在の山田町釜石市の一部を含めた地域の行政を管轄した。
東日本大震災

2011年平成23年)3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、大槌町も強い揺れに襲われた。町内では新町に地震計が設置されていたが、震度は不明となっている。隣接する市町村では、釜石市6弱宮古市遠野市5強山田町5弱であった[12]。加えて、この地震が引き起こした津波とそれによって発生した津波火災により、町は壊滅的被害を受けた[13][注 1][注 2]

発災時、町長加藤宏暉を始めとする町職員幹部ら約60人は災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎2階の総務課に参集したが、余震が続くためにいったん駐車場へ移動し、さらに津波接近の報を受けて屋上に避難しようとしたものの、約20人が屋上に上がったところで津波が到達。町長と数十人の職員は避難が間に合わず、庁舎の1・2階を襲った津波に呑み込まれて、そのまま消息が途絶えた[14][15]。町長以外にも課長級の職員が全員行方不明となったため、行政機能が麻痺した[16][17]。県都である盛岡市から車で数時間かかる地勢も災いして被害の全容が外部に伝わりにくく、周囲から孤立した状況がしばらく続いた。

JR山田線大槌駅は駅舎などが津波で流失し、線路にも大きな被害が出た[18]

東京大学海洋研究所付属の国際沿岸海洋研究センターは、人的被害こそなかったものの、建物は3階まで津波に洗われ、特に壊滅的状態となった1・2階では紙媒体と電子媒体による保存データの全てが失われた。また、港に係留してあった研究船は沈没した[19][14]

三陸海岸初の双胴型高速旅客船である釜石市所属の観光船「はまゆり」(109 t、200人乗り)は、定期検査のために赤浜地区の岩手造船所で陸に揚げられた3時間後、津波にさらわれた。第2波が来たときには防波堤を越えて内陸へ押し流され、150 mほど北にある2階建ての民宿の屋根に引っかかり、その上に乗る形でほぼ無傷のまま止まった[20][21][22]

避難所生活を送る人たちのために民謡を歌って慰問活動をしていた地元の女子中学生臼澤みさきがテレビの報道番組に映り、それがきっかけとなって2012年7月に歌手デビューした[23]

3月19日:行方不明となっていた町長加藤宏暉が遺体で発見[13]。津波被害のため選挙が実施できず、以後5か月余りにわたって町長が空席となる。

4月9日:この時点で判明した人的被害は死者583人、行方不明者1,068人、避難者9,070人[13]、建物被害は詳細不明。

4月24日:津波で民宿の屋上に漂着した釜石市の観光船「はまゆり」は、防災教育を主目的とした震災のモニュメントとして保存する案が地震研究者らの提言で浮上していたが、この日、釜石市は「町の復旧に支障が出る」として解体を決め[21][22]震災遺構にはならなかった。

4月25日:町立大槌小学校の運動場にて、大槌町役場の仮庁舎が開庁[24][25]

5月10日:「はまゆり」が2台のクレーンによって民宿の屋根から地表に下ろされ[26]、現地にて約1か月かけて解体。

5月26日:この時点で判明した人的被害は死者768人・行方不明者952人・重軽傷者不明、建物被害は依然として詳細不明[27]

6月6日:この時点で判明した人的被害は死者777人、行方不明者952人[28]

6月20日:副町長・東梅政昭の任期が満了し、翌21日に総務課長の平野公三が町長職務代行を引き継ぐ[29]。町長選挙は8月28日に実施と決定[29][30]

8月28日:町長選挙が実施され、元町総務課長の碇川豊が当選。


東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波で壊滅した大槌町赤浜地区の岩手造船所付近。画面中央に、民宿の屋根に乗り上げた観光船「はまゆり」が見える。2011年3月15日撮影。

津波で壊滅した東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター[31](赤浜地区。本文にて詳述)。2011年3月15日撮影。

津波で壊滅的被害を受けた吉里吉里地区。画像中央を走る幅の広い道路は国道45号。山並みの向こうに見える煙は、大槌港の南側で発生した火災によるもの。3月15日撮影。

東日本大震災後、2011年4月25日に町立大槌小学校(後方の白い建物)のグランドにプレハブで建設された大槌町役場仮庁舎。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:89 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef