大極殿
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それに対し、第二次大極殿下層の東側大極殿は、日常の朝政にあたる空間だったと考えられ、このような機能分化は、長安城太極宮太極殿と大明宮含元殿の影響を受けたものと指摘される[10]

奈良時代の後半は、中央の第一次大極殿院の跡地は朝儀の場としては使われなくなり、儀式の機能は東側、壬生門北の第二次大極殿に集約されたものと考えられる。したがって、壬生門北は、北より<内裏、大極殿、12堂の朝堂よりなる太政官院(朝堂院)、2堂の朝集殿、壬生門>が一直線に建ち並ぶ形態となり、壬生門を入ってすぐ北の両側には東に式部省、西に兵部省の建物があるという配置となった。

第一次大極殿地区に関しては、仁藤敦史が木簡史料にみられる「西宮」を第一次大極殿地区に想定している。すなわち、饗宴などに用いられてきた第一次大極殿地区が居住区画に改造されたとみる[11]。その改造は、発掘調査の成果からは、平城京への還都(745年)直後ではなく、早くとも天平勝宝年間(749年-757年)以降と考えられており、天平神護765年-767年)のころには積極的な改造がなされた形跡がない[11]。仁藤は、このことを天平勝宝元年の聖武天皇孝謙天皇への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないかと推測している[12]

なお、奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業

復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、この金具の意匠設計を進めたという。宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅(宮殿?)、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある[13]

平城宮 第1次大極殿(復元)の宝珠形大棟中央飾り

平城宮 第2次大極殿跡

難波京の大極殿後期難波宮復元模型

難波京難波宮(後期難波宮)は、723年養老7年)、複都制により平城京の副都として造営された宮である。聖武天皇治下の744年天平16年)、天皇が突如、難波宮への遷都を表明し、諸臣はそのとき恭仁京遷都を推す人が多かったというが、天皇は難波への行幸を決行したといわれる。難波に着いてほどなく、天皇は紫香楽宮へ移り、結局、留守司の橘諸兄より難波を皇都とする旨のが出された。しかし、紫香楽宮で震災に遭遇した聖武朝は群臣そろって平城京への還都を決め、745年(天平17年)の還都後は、再び、長岡遷都直前の793年延暦12年)まで平城京の副都の地位にあった。

難波宮は、1961年昭和36年)、山根徳太郎により発見されそののち発掘調査がなされたが、この宮の下層から検出されたのが上述した前期難波宮である。

後期難波宮は、北より内裏、大極殿、朝堂8堂よりなる朝堂区域(朝庭ふくむ)、朝集殿2堂が一直線にならぶ形態をとっており、建物数、構造配置のうえで長岡宮に類似しており、長岡宮は難波宮の建物を移築して営まれたことが判明している。

現在は、難波宮史跡公園に土台が復元されている。
長岡京・平安京の大極殿長岡宮大極殿模型(向日市文化資料館)長岡宮大極殿跡平安宮朝堂院模式図平安宮大極殿を模して建造された平安神宮外拝殿(中央)。手前が龍尾壇の朱欄

長岡京段階から、朝堂院と内裏の分離がはじまっている。これは、天皇が大極殿に出御しておこなわれていた朝政が、内裏で行われるようになったためである。そのいっぽうで大極殿は朝堂区域との一体化を強め、大極殿・朝堂・朝集殿をまとめて朝堂院とする呼称は、桓武天皇792年延暦11年)に生まれている。

794年(延暦13年)に遷都された平安京の大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となった。すなわち、朝堂院は長岡京の時代にくらべ、いっそう一体化を深めた。ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄(朱色の手すり)が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。龍尾壇は今日の平安神宮でも見ることが出来る。大極殿の後背には「小安殿」(こあどの)と呼ばれる殿舎が軒廊(こんろう)でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小楼閣が対置されていた。

9世紀中ごろになると、天皇が宮城(大内裏)から出かけることは、賀茂川、臣下の邸宅、上皇の居所などごく一部に限られるようになり、はなはだしくは「大極院行幸」の表現さえ生まれたという[14]

平安末期後白河法皇の命で作られた『年中行事絵巻』には東西11、南北4間で、塗りの柱と瓦葺き入母屋造屋根に金色の鴟尾を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。なお、『年中行事絵巻』や、1895年明治28年)京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、970年天禄元年)成立の『口遊(くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は出雲大社奈良東大寺大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは1072年延久4年)に建て替えられた姿で、本来は重層(2階建て)であったとも推測される。

平安時代中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が土御門東洞院殿(現在の京都御所)へ移行していくのに従い衰微していった。


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