大森一樹
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大森 一樹(おおもり かずき[出典 1]、(1952年[出典 2]昭和27年〉3月3日[出典 3] - 2022年令和4年〉11月12日[12])は、日本男性映画監督脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事[13]大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長[出典 4]。血液型はAB型。文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける[5]
略歴

1952年に大阪府[出典 5]大阪市[10]東住吉区医師をしている父親の家で生まれる[出典 6]1961年に父親の転勤で兵庫県芦屋市に転居[15]芦屋市立精道中学校六甲高等学校京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある[11]

もともと漫画少年であり、手塚治虫真崎守の作品などに影響を受ける。六甲高等学校在学中の1968年には仲間たちと自主映画(8ミリ映画)を制作し[出典 7]村上知彦と知合う。京都府立医科大学在学中は、ジャン=リュック・ゴダールに憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った[注釈 1][16][15]。一方、大森、村上らは、週刊ファイトの高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の1975年には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が[7]、自主映画ながらキネマ旬報ベスト・テンで21位に入るなど、高く評価される。

1978年、前年に第3回城戸賞を受賞したシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー[出典 8]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}前年の東宝大林宣彦、同年の日活石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し[注釈 2]、アマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。[要出典]この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で各種映画賞を受賞[出典 9]

以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子と結婚、一男一女をもうける[19][15]1982年6月には長谷川和彦相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立[出典 10]

1984年からの吉川晃司主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は斉藤由貴主演の三部作などを担当[7]。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めてゴジラシリーズの演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される[出典 11]。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。

1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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