1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた[15]。
1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し自宅マンションが半壊[22]、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす[15][18]。翌週には映画『緊急呼出し エマージェンシー・コール』ロケのためマニラへ発っており、翌月に帰国してからは『ゴジラvsデストロイア』の設定シナリオを書き上げている[22]。
1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。
2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長[出典 12]・同大学院教授[18]。
2015年、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める[23]。
2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去[24][12]。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった[25]。 大森が監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』および『ゴジラvsキングギドラ』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる[9][12]。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱
ゴジラシリーズについて
森田芳光や相米慎二などの同世代の監督が、作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けの内容に、『エイリアン2』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、「リアリティのあるゴジラ」ではなく、「強いゴジラ」を目指したという[12]。
『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという[12]。
大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている[17]。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている[3]。
『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという[9]。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている[9][注釈 4]。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた[17]。『vsビオランテ』冒頭での新宿のミニチュアは、スケジュールの都合から大森の本編班が撮影した[10]。
幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『ゴジラvsモスラ』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという[5]。