大森一樹
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京都府立医科大学在学中は、ジャン=リュック・ゴダールに憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った[注釈 1][16][15]。一方、大森、村上らは、週刊ファイトの高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の1975年には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が[7]、自主映画ながらキネマ旬報ベスト・テンで21位に入るなど、高く評価される。

1978年、前年に第3回城戸賞を受賞したシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー[出典 8]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}前年の東宝大林宣彦、同年の日活石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し[注釈 2]、アマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。[要出典]この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で各種映画賞を受賞[出典 9]

以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子と結婚、一男一女をもうける[19][15]1982年6月には長谷川和彦相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立[出典 10]

1984年からの吉川晃司主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は斉藤由貴主演の三部作などを担当[7]。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めてゴジラシリーズの演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される[出典 11]。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。

1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた[15]

1995年1月17日阪神・淡路大震災が発生し自宅マンションが半壊[22]、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす[15][18]。翌週には映画『緊急呼出し エマージェンシー・コール』ロケのためマニラへ発っており、翌月に帰国してからは『ゴジラvsデストロイア』の設定シナリオを書き上げている[22]

1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。

2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長[出典 12]・同大学院教授[18]

2015年第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める[23]

2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去[24][12]。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった[25]
ゴジラシリーズについて

大森が監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』および『ゴジラvsキングギドラ』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる[9][12]。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、自身もよくわからないという[出典 13][注釈 3]。大森自身は、『vsビオランテ』は大張り切りであったが、『vsキングギドラ』は苦し紛れの開き直りであったと述懐している[5]。一方で、『vsキングギドラ』については、やるだけやらせてもらったことから愛着はあるとも述べている[27]

森田芳光相米慎二などの同世代の監督が、作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けの内容に、『エイリアン2』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、「リアリティのあるゴジラ」ではなく、「強いゴジラ」を目指したという[12]

『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという[12]

大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている[17]。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている[3]

『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという[9]。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている[9][注釈 4]。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた[17]。『vsビオランテ』冒頭での新宿のミニチュアは、スケジュールの都合から大森の本編班が撮影した[10]

幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『ゴジラvsモスラ』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという[5]


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