大林宣彦
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倉敷芸術科学大学客員教授長岡造形大学造形学部客員教授尚美学園大学名誉教授文化功労者[8]
概要

広島県尾道市東土堂町生まれ[出典 2]尾道市立土堂小学校[12]尾道北高校卒業[1]成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授[13]2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授[14]2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授[15]

妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家森泉岳土[16]。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる[17][注釈 2]

自主製作映画の先駆者として[出典 3]CMディレクターとして[出典 4]、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師[出典 5][注釈 3]
来歴
生い立ち

父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる[出典 6]。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。父方の祖父は日本で初めて睡眠療法を取り入れようとした人で[34]、大林は子どもの頃、夢遊病を取り入れた心理療法を受けたことがあるという[34]。父方の一族の男子は、歴代大林〇彦と、母方の一族の男子の名前は歴代村上〇祥と名前を付けられた[35]。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており[出典 7]、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった[35]

宣彦の生誕時に父は岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ[34]。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ[出典 8][注釈 4]。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30?40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の従妹とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった[34]。1?2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する山陽本線蒸気機関車で、それはとてつもない恐怖体験だったという[34]戦前の尾道には外国船も寄港し、南蛮渡来の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は古今東西ガラクタで溢れていた[34]。2歳でその蔵にあったブリキ映写機おもちゃに親しみ[34]、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った[出典 9]。大林は1977年『瞳の中の訪問者』撮影中に樋口尚文のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたならマキノ雅弘さんになっちゃうでしょうね。もっと言えばエジソンが映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている[39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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