大林宣彦
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^ 1977年の『ハウス』公開時の宣材に「CM界の魔術師・大林宣彦が鮮烈映像とハッピーなサウンドで描く新しい驚きと美しいオカルト映画新登場!」というキャッチコピーが使われた[33]
^ 大林によれば、戦前の尾道はカーストのようなものがあり、住む地域によってきれいに色分けされていて、大林が育った山陽本線より上の斜面が山の手の上流階級、今の国道2号線がある場所は戦争中は民家が立ち並ぶ下町。その下が商人の町で、海岸が漁師町でさらに海岸の先に船上民族がいて、高校生ぐらいまで女の子が裸で暮らしていたという[34]
^ 商業映画デビューする際に、馬場毬男以外に、団茂(ドン・シーゲル)、鳥鳳介(フランソワ・トリュフォー)なども候補に考えていた[41]
^ 平田オリザの父と大林は一緒にインディーズ映画を撮っていた仲間で[50]、平田オリザの父は「大林に最初に16ミリを持たせたのはオレだ」と生涯自慢していたという[50]。大林の初期の代表作『だんだんこ』は8ミリだが、原作は平田オリザの父[50]。平田オリザの父が監督としてクランクインしたが、撮影の大林が才能がありすぎ、大林作品になってしまったという[50]。『だんだんこ』には平田の姉も出演している[50]。平田の母と父をくっつけたのは大林夫妻の策略で、平田オリザは「世の中では『私のいまあるは、〇〇さんのおかげです』というようなスピーチをよく聞くが、私がこの世にあるのは(恩人というだけではなく)生物学的にも大林夫妻のおかげなんです」などと話している[50]。大林は小学校3年生の平田に「オリザ君、映画監督というのはね、ゼロから世界を創る仕事なんだよ。神様と同じ仕事をするんだから、他人には謙虚じゃなきゃいけないんだよ」と真顔でいうような人だった。偉大な叔父から学んだ一番のことは、監督(演出家)は、いくつになっても、こういう台詞を吐いていいのだという点だった」などと述べている[50]
^ 映画を映画館ではなく、画廊でキャンパスに8ミリを映すというアイデアは飯村隆彦が発案した[3]
^ 大林は「『アンダーグラウンド』という言葉を日本に紹介したのはフィルム・アンデパンダンの同人・金坂健二。金坂が留学から帰って来て『アメリカではもう実験映画ともアバンギャルドとも言わずに、"アンダーグラウンド"と言うんだ』と言い出して、佐藤重臣が『それは面白い、その言葉を流行らせよう』と、佐藤が『アンダーグラウンド』を『アングラ』と命名した。『アングラ』は佐藤が作った造語。佐藤は当時『映画評論』の編集長だったから、『アングラ』という言葉をバンバン売り出した。しかし日本では結果として演劇の方へ行った(アングラ演劇)」と述べている[35]
^ 当時、8ミリや16ミリを上映できるホールは草月会館しかなかったため、草月に対抗して新宿のホールとして何をやるかと議論があり、開館イベントとして大林たちに声がかかった[3]
^ マンダムのCMを手掛けたのは大阪電通。大林は売り出す商品に愛を持っていないスポンサーを許せず、某菓子メーカーから発売された×レーのCMを作る際、その会社の宣伝部長が「×××みたいな×レー」と連発するので、大林がハラを立てて胸ぐらを掴んで「出ていけ!」と言ったら、その部長も怒鳴り返し、結局3億円の仕事が飛び、小田桐も責任を取らされて系列の子会社に飛ばされ、大林も以降は東京電通の仕事は出来なくなった。その話を聞いた大阪電通に呼ばれてやった仕事がマンダム[47]
^ 勝と初対面の日に相撲をやろうというので、撮影所の砂場で相撲を取ったら相打ちで、勝から気に入られ、座頭市とチャールズ・ブロンソン共演による西部劇をやろうと約束していたという[97]
^ 真野の起用は大林の推薦[99]
^ 1985年『さびしんぼう』公開時のキネマ旬報の記事で、映画評論家・増淵健が「大林は舛田利雄と並ぶ当代のアイドル使い」と評している[154]

出典^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, p. 539, 「特撮映画スタッフ名鑑」
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj “『時をかける少女』大林宣彦監督、死去 82歳 最新作の公開予定日に”. ORICON NEWS (オリコン). (2020年4月11日). https://www.oricon.co.jp/news/2159727/full/ 2020年4月11日閲覧。 大林宣彦監督、最新作の公開予定日に逝去…行定勲監督「恩師を失ってしまったよう」行定勲 (2020年4月16日). “大林監督が最後に撮りたかった「悲恋」 巨匠からの課題とは”. 西日本新聞me (西日本新聞社). オリジナルの2020年4月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200416105657/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/601116/ 2023?07?20閲覧。 井口昇インタビュー - HogaHolic(Internet Archive)、Twitter / a_i_jp: 17歳で『HOUSE』を観て以来の大林世代です、“テレビの力を見せてやろう”という気持ちで臨みました、「すぐおわ」放送開始1周年。憧れの原田知世さんが登場!(ゲスト:原田知世さん)、「カメ止め」上田慎一郎監督「唯一無二の方でした」 大林宣彦監督との思い出つづる、【追悼】大林宣彦監督、旅立つ。「映画で歴史は変えられないが、未来を変えることはできる」樋口尚文 (2020年4月12日). “ぴあ大林宣彦【追悼特別寄稿(1)】 大林宣彦はいかなる時も「私人=詩人」であった”. ぴあ. 2020年4月15日閲覧。森直人 (2019年7月30日). “『HOUSE/ハウス』から『この空の花 長岡花火物語』『花筐/HANAGATAMI』まで! “A MOVIE”の素晴らしき大林宣彦ワールドへの招待<ザテレビジョンシネマ部コラム>”. ザテレビジョン. KADOKAWA. 2020年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月19日閲覧。森直人 (2020年5月7日). “映画監督・大林宣彦は永遠に…戦争体験から生まれた「夢」と「死」の世界観<ザテレビジョンシネマ部>”. ザテレビジョン. KADOKAWA. 2020年5月7日閲覧。【追悼特別寄稿(2)】プロとしての大林宣彦の仕事の流儀 -中川右介、【追悼特別寄稿(3)】若者に映画の夢を与え続けた映画監督大林宣彦 -植草信和、【追悼特別寄稿(4)】追悼 大林宣彦さん 自由人の豊かさ -川本三郎大高宏雄 (2020年4月18日). “大高宏雄の新「日本映画界」最前線“経験ゼロ”の大林宣彦監督はなぜ商業映画デビューできた?”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 株式会社日刊現代. 2020年5月8日閲覧。
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