大東流合気柔術
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(門人には大東流合気剣術と合気甲源一刀流剣術の両方を教授した)また、合気拳法も考案した。佐川幸義の没後、門人達は佐川伝大東流合気武術を組織している。

堀川幸道 1894?1980年。堀川泰宗の長男として1894年4月10日、北見枝幸に生まれる。幼名は幸太郎。1898年、一家は湧別に移住する。1914年に大東流に入門し、武田惣角の弟子になる。教育の傍ら、惣角先生より厳しい個人指導を受け、大東流の柔術技の他に合気技を数多く伝授される。1931年1月に秘伝目録、6月に秘伝奥儀之事、10月に大東流合気柔術奥儀の巻物を授与され、教授代理となる。1937年9月に大東流合気柔術秘奥儀之事の巻物が授与される。1950年に湧別で大東流合気柔術幸道会を設立。1970年に、四十数年にわたる僻地における教育の献身により、教育界の功労者として勲五等瑞宝章の叙勲を受ける。1974年には、元最高裁判所長官であった石田和外の提唱によって、町村金五(自治大臣)、大塚博紀(和道流空手名人)、 堂垣内尚弘(北海道知事)ら8氏の連盟によって永世名人位を贈られる。1980年逝去。主な弟子に幸道会総本部長を継いだ井上祐助、新保建雄、六方会の岡本正剛、息子の堀川剛道、光道の錦戸武夫、牧羊館の米澤克己らがいる。

吉田幸太郎 1883?1966年。植芝盛平を武田惣角に紹介した。武田惣角から代理教授を許されている。弟子に極真空手創始者の大山倍達ハプキド創始者の崔龍述 (吉田朝男)、在米空手家のリチャード・キムや地曳秀峰近藤勝之らがいる。晩年は半身不随のため茨城県日立市に移住し少数の弟子に教授を行った。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}家伝の柳流合気武芸も伝えた。[要出典][要ページ番号]

植芝盛平 和歌山県田辺出身。合気道を創始する。大東流の巻物を発行授与した弟子に望月稔富木謙治塩田剛三らがいる。大阪朝日新聞社の道場において久琢磨らに大東流を旭流柔術として教授をした。合気剣術も一部学んだが、戦後、鹿島新当流をもとに新たに「合気剣」を編み出した。

細野恒次郎(つねじろう) 東京都江戸川区小岩に振栄館道場を開き大東流を教授する。立山一郎著合氣之術に拠れば合気術4段、奥義皆伝。弟子に地曳秀峰(八光流柔術・中国武術家)、近藤勝之らがいる。

松田敏美 1895年ごろ?不明。本名、豊作。北海道旭川市にて松武館道場を開設して大東流合気柔術を教授する。弟子には群馬県大間々町に練心館道場を開き大東流合気柔術を教授した前田武、北海道帯広市の元信館道場にて教授する宝田元信、他に八光流柔術開祖の奥山龍峰 (後に武田にも師事) や、導引術で有名な道家合気術(道家動功術) の早島正雄などがいる。

山本角義 本名、留吉。大東流合気柔術総主を称する。戦後、北海道苫小牧市にて柔進館道場を開設し大東流合気柔術を教授し、苫小牧警察署で逮捕術の教官も務める。また独自に居合を研究し無限神刀流居合術を創始する。武田惣角の印可した最後の教授代理で、死の直前の惣角から合気の口伝を授かったとされる。須藤一刀斎が総主を継承している。

佐藤完實 1868年 ? ? 武田惣角の最初期の門人で、1905年(明治38)年時点で大東流合気柔術を七年修行しており秘伝奥義の目録を得て教授代理となっていた。また神道六合流野口清(野口潜龍軒)から学んでおり帝国尚武会宮城県支部長を務めた。大東流合気柔術と神道六合流より女子護身術を創始した。

以下の記載者は武田惣角の孫弟子以降の伝承者
近藤勝之 1945年?現役。武田時宗の門人。はじめ細野恒次郎に次いで吉田幸太郎と兄弟子の地曳秀峰(八光流皆伝師範)に、後稀に北海道へ足を運んだり、武田時宗を東京へ招いたりして、大東流の柔術のみ学ぶ。1988年に宗家代理、免許皆伝(合気技は別、武田時宗の病床時)。のちに大東流合気柔術本部長・総務長に。但し大東流合気柔術の流派全体の本部長、総務長という意味合いではなく、旧大東館系の眞武館道場系大東流会派内の本部長、総務長である。

武田宗光 1955年ごろ?現役。武田時宗の門人。武田惣角の玄孫(武田惣角の長男武田宗清の曾孫)。武田氏父祖伝来の地福島県河沼郡会津坂下町で農業を営みつつ、各地で大東流合気柔術の指導に当たっている。初めに会津坂下町の武田家に伝承された武術を祖父から学び、後に武田時宗の教えを受けた。武田惣角の四男も武田宗光であるが、別人。1977年に武田時宗の大東館の支部として福島県での活動を開始したが、大東館瓦解後、会津坂下を本部として独自の活動を開始し、福島県や新潟県、東京都など8カ所に支部を開いている。門下生からは宗家と呼ばれる。

森恕 1931年?2021年。久琢磨の門人。1962年から久琢磨に大東流を学ぶ。1965年に教授代理。1975年の琢磨会の結成時、総務長に就任、2020年まで総務長を務めた。弁護士の業務の傍ら、大東流を指導した。

大神謙吉 1939年?現役。久琢磨の門人。1961年から久琢磨に大東流を学ぶ。1968年に兵庫県西宮市に道場・大武館を開く。創設期の琢磨会にも参加していたが後に脱退。大東流以外にも空手道も修行し、空手・拳法に対応できる技法を工夫している。



小林清泰 1942年5月20日?現役。1961年10月に関西合気道倶楽部に入門。1962年に桃山学院大学で合気道部を創部。久琢磨から大東流、合気会の小林裕和師範から合気道を学ぶ。1963年に学生を連れ大東流合気武道本部大東館で合宿、武田時宗宗家の指導を受ける。以後、宗家来阪の折に指導を受ける。1970年に久琢磨より教授代理允可。1973年に大東流合気柔術8段允可。久琢磨の兄弟弟子にあたる中津平三郎(大阪朝日新聞社)の弟子である千葉紹隆師範、蒔田完一師範に師事。久琢磨の紹介で植芝盛平、塩田剛三のもとで稽古。朝日カルチャーセンターの合気道講師を務める。1975年の琢磨会結成時、幹事長に就任。2016年9月に琢磨会が一般財団法人化し、理事に就任している。尼崎、芦屋、東京で大東流を指導している。

岡本正剛 1925年? 2015年。堀川幸道の門人。大東流合気柔術六方会宗師を称する。師の堀川幸道没後、東京において六方会を主催する。岡本正剛はそれまで神秘のベールに包まれ実態のよく知られていなかった大東流合気柔術の書籍やビデオを早い段階から積極的に発表し、堀川幸道系の大東流の技術を広く公開した。そのため一部の保守的な大東流師範からは反発を受けた。

長尾全祐 1938年?現役。山本角義の門人。昭和45年(1970年)8月に山本角義の道場に入門し,昭和52年(1977年)3月3日に無限神刀流居合術の教授代理を許され,昭和56年(1981年)3月3日に大東流合氣柔術教授代理(免許皆伝及び総主)を賜り,長尾一刀齋全祐または長尾一刀齋角全と称す。

佐藤金兵衛 1925年?1999年。柔術家、中国武術家。八光流柔術や合気道、柳生心眼流など様々な柔術を習っていたが、昭和32年(1957年)3月武田惣角最後の弟子である山本角義と面識を得、山本角義を東京の自宅に招聘して大東流を学ぶ。


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