大東亜戦争
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1952年のサンフランシスコ講和条約施行以降の連合国軍占領期後の日本では禁止措置の効力は無くなったものの、その意味で「太平洋戦争」を用いるケースが続いている[8]

2024年現在、日本政府は「大東亜戦争」の表記は「現在一般に政府として公式文書で使用していない」としている[9]。また2006年の政府見解では、いかなる用語を用いるかは文脈によるものであり、「大東亜戦争」の用語が不適切かは、一概に回答できないとしている[10]
概要[ソースを編集]
前史[ソースを編集]

1937年昭和12年)7月7日、日本と中華民国との間で交戦が勃発した(盧溝橋事件)。第1次近衛内閣近衛文麿首相)は「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、日本はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[11]。同年8月第二次上海事変が勃発するに及び、戦線は中支(中支那、現中国の華中地方)、そして中国大陸全土へと拡大し、日華事変や日支事変と呼称されるようになり、日本中国の全面戦闘の様相を呈した。9月2日には、「北支事変」は支那事変が正式の呼称であるとされた[12]

1938年(昭和13年)、第1次近衛内閣が発表した支那事変(日中戦争)の戦争目的を発表した「東亜新秩序」声明では「大東亜」は使用されておらず、1940年(昭和15年)7月26日第2次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱において「大東亜」の名称が初めて用いられたとされる[5]。この中では「日ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言がある[5]。また8月1日には松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という用語を初めて用いた談話を発表した[5]
名称の策定[ソースを編集]

1941年(昭和16年)12月8日に日本と英米との間に戦争が発生前の検討の時期から発生後まもなくは、「対中戦争」「対英米戦争」「対英米戦争」「対英米蘭?戦争」など交戦相手の名を用いた戦争名が用いられていた。対蘭に関しては、1941年(昭和16年)12月1日御前会議で開戦を決定したものの、同月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告まで公式には「対英米蘭戦争」とは呼んでいない。日本の政府および軍部ではこの戦争を正式にどう呼称するかについて検討が開始された。
大本営政府連絡会議[ソースを編集]

12月10日大本営政府連絡会議は「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」を決定、「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされた[13]。会議では海軍から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された[5][注釈 1]。しかし、海軍のこれらの名称案は「支那事変(日中戦争)」を含めた場合や、ソビエト社会主義共和国連邦との交戦が後に起きる可能性を考えると適当ではないと反対された。その結果、「大東亜戦争」が採択されている[5][15]
閣議決定[ソースを編集]

12月12日閣議において、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された[4]


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