大月薫
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温炳臣は孫文と同郷の貿易商で、孫文を支援し、ボディガードも務めた人物[2]。孫文と薫は1902年に婚約したが、1903年以降は孫文が外国に出かけたまま連絡が途絶えがちになった[1]。1905年に孫文が再来日し、8月に浅間神社 (横浜市西区) で式を挙げ、子供を身ごもった[1]

1906年5月、二人の間に娘(宮川冨美子)が生まれたが、冨美子誕生の前に、孫文は中国に帰国し、薫とは離婚。孫文からの送金も途絶え、父・金次の仕事も不況で、薫は横浜の劇場のチケットもぎりをして家計を助けた。娘の冨美子は戸籍上は金次の四女(薫の妹)として届け出され、1911年に横浜市内の魚行商人の宮川梅吉家の養女となり、紡績女工を経て、酒業に従事する男性を婿に取った。孫文は「名前は分からないが、日本に娘がいる」などと友人に話していたという[3]。娘を手放したのち、薫は2度再婚した。2人目の夫となった栃木県足利市の東光寺住職・実方元心との間に2児をもうけた。

冨美子は1955年に自分が孫文の子であることを知り、母親の再婚先である東光寺を訪ね、薫と面会した。薫は1970年に死去。享年82[3]

2008年、冨美子の息子(孫文と大月桙フ外孫)である宮川東一は『日本に遺された孫文の娘と孫』を発表している[4]慶應義塾大学准教授の宮川祥子は曾孫[5]
脚注[脚注の使い方]^ a b c 久保田文次、『孫文研究』第47号、2010年、p27
^ 『孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・恵臣兄弟』小笠原謙三、八坂書房、2009.3
^ a b 孫文が愛した日本人妻、求婚時は14歳―日本レコードチャイナ、2009年3月2日
^ 孫文の孫は日本にいた!日本在住の孫・宮川東一が自身の半生を語る
^[1]孫文記念館館報2015年1月

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浅田春


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