大映
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1957年(昭和32年) 大映スターズが高橋ユニオンズを合併して大映ユニオンズが発足して永田がオーナーに留まる。5月にスター引き抜き防止の「六社申し合わせ書」に永田社長が調印する。6月に「大映ビスタビジョン」第一作『地獄花』を公開する。

1958年(昭和33年) 大映ユニオンズが毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズが発足したが、存続した系譜は毎日側であるものの、組織運営を大映側が掌握したことから実質的な逆さ合併だったため、永田がオーナーに留まる。社内に大映テレビ製作室を設けて、テレビ映画の製作に乗り出す。
「大映スコープ」の導入により、クレジット表記が「雲の果てから太陽の光が差し込む」ものになる。白黒・カラー共通で末期まで使用された。

1959年(昭和34年) 東宝松竹文化放送ニッポン放送と共にフジテレビジョンを開局する。

1960年代

台湾など海外との合作による大作や、70ミリ特撮映画『釈迦』『秦・始皇帝』を製作し、これらの成功をきっかけに以後の「大作路線」が始まった。この頃はウォルト・ディズニー作品の日本での配給権を持っていた。

1961年(昭和36年) 現代劇のトップスター菅原謙二が退社した。『悪名』シリーズのヒットにより、勝新太郎と田宮二郎が頭角を現し始めた。同年、政界で疑獄事件武州鉄道汚職事件が発覚し、永田は問題となった都内から秩父に至る“武州鉄道”なる新線の建設計画の発起人に名を連ねていたことから巻き込まれ、贈賄容疑で逮捕・収監されるが、不起訴となった。

1962年(昭和37年) 東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアム(東京球場)を建設する。雷蔵が永田の養女と結婚、永田と雷蔵は事実上の姻戚関係となる。勝新太郎も3月5日に永田の媒酌で中村玉緒と結婚した。一方では、現代劇で活躍していた人気若手スター・川口浩(川口松太郎の長男)が退社した。

1963年(昭和38年) 戦後の大映映画の大黒柱だった長谷川一夫が映画界から引退。看板女優の山本富士子が他社映画への出演許可と、以前交わした出演本数を少なくするという約束を守ることを願ったところ、永田はこれに怒り山本を一方的に解雇し、五社協定を盾に他社の映画・テレビドラマにも出演させなかった。同年、人気上昇中であった叶順子が健康問題から、7月13日公開の『風速七十五米』を最後に27歳で突然引退した。看板スターを相次いで失った大映の映画館は、空席が目立つようになっていった。
東宝の『ゴジラ』に対抗して『大群獣ネズラ』を企画、秋に撮影を開始したものの衛生面などで様々な問題が発生したため、製作は中止となった。

1964年(昭和39年) 全国の映画館数が5000館を割った。他社に比べ直営館の少ない大映は苦戦を強いられるが、大映の製作原価は「6000万円で上がれば黒字」という中堅ぶりだった。

1965年(昭和40年) 前述の『大群獣ネズラ』に代わる特撮企画として東京撮影所で『大怪獣ガメラ』を製作、大ヒット作品となり大映の特撮技術の高さを内外に知らしめた。子供を中心とした新たな観客層は、倒産時まで安定した動員数を維持し、末期の大映を支える数少ない柱のひとつとなった。テレビ室では『ザ・ガードマン』をスタートさせ、大ヒットを記録し大映テレビ室の名声を高めることになった。

1966年(昭和41年)3月 永田は「日本映画は必ず復興する」の一文をマスコミに向け発表した。同年、東京撮影所製作の『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』と、京都撮影所製作の『大魔神』の2本立て興行を行った。特撮作品の自社2本立て興行は、国内特撮映画のフロンティアながら特撮を仕切れる監督が円谷英二1人であった東宝では実現できなかった前代未聞の快挙として話題となった。

1967年(昭和42年) 石原プロ三船プロなどのスターによる独立制作プロダクションに触発された二枚看板のひとり勝新太郎が、勝プロを設立して独立する。4月に二枚看板のもうひとりである市川雷蔵主演の本格的な和製ハードボイルドの傑作『ある殺し屋』が公開される。ところが、その同年9月に専属俳優の丸井太郎がガス自殺した。元々大部屋俳優であった丸井はテレビ室製作の『図々しい奴』のヒットで茶の間の人気者となったが、それを見た永田によって五社協定を盾に無理矢理に映画界に引き戻され、その後の飼い殺しに等しい扱いに絶望したものであったという。
同月、映画事業の赤字に起因する巨額負債と経営難が表面化した。これをきっかけに永田体制は破局へと徐々に向かい始める。

1968年(昭和43年) 市川雷蔵が『関の弥太っぺ』撮影期間中の6月11日に腸からの大量出血を発症して入院し、直腸癌が判明して手術を受けた。雷蔵は当時、大映の「頼み綱」とまで言われ、経営的苦境の会社や義父である永田のために療養を切り上げて現場復帰しなければならず、年内に1969年1月公開の『眠狂四郎悪女狩り』を撮影したが、衰弱した身体で立ち回りはできずに代役を立てる状態であった。6月29日に有吉佐和子原作の映画『不信のとき』を公開する。主演した田宮二郎が配役の序列が4番目であることに抗議すると、永田は激怒して田宮を一方的に解雇し五社協定を盾に他社制作の映画・テレビドラマに出演できなくさせる。山本富士子、丸井太郎に続く本件で、五社協定の存在と弊害がマスコミに大きく取り上げられた。永田は、自ら作り上げて日本映画の黄金時代を支えた「スターシステム」と、その根底を支えた五社協定の崩壊を自ら招いた。同年、人気若手女優の姿美千子も退社している。1968年は若手では峰健二改め峰岸隆之介が入社し『講道館破門状』で登場する明るい話題もあり、永田は田宮に代わる看板スター候補として大きな期待を寄せたが、末期の大映が置かれた環境はスター候補として峰岸が双肩で背負うには過酷であった。

1969年(昭和44年)、年初から入院中だった雷蔵が7月17日に37歳で死去した。前年末に痛みをこらえて撮り終えていた2月公開作『博徒一代 血祭り不動』が遺作となる。看板スターを相次ぎ失い、新人スターや若手スタッフも育成できず、勝プロダクションと共同製作の『座頭市』シリーズも勢いはなく、テレビ業界の興隆に押されて映画産業全体は斜陽化しており、大映は観客動員数も深刻な落ち込みを始める。芸能界で永田の威光も薄れ、後に苦境を乗り越えて著名タレントとなった田宮と鉢合わせした際、田宮に啖呵を切られて屈辱的な応対をされた。

1970年代

1970年(昭和45年) 雷蔵の喪失は回復ならず、6月に同じく経営不振の
日活と配給網を統合してダイニチ映配を設立し、大映専務の松山英夫が社長、日活常務の壺田重三が副社長にそれぞれ兼任で就任した。


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