政府の外郭団体となった武徳会は、大日本学徒体育振興会、講道館、日本古武道振興会(初代会長小山松吉)、大日本剣道会(菱刈隆陸軍大将を会長)、皇武会などを包摂組織とし、統制を行った。また、剣道、柔道、空手、銃剣道、射撃道などの各部会を設け、各武道の振興にも寄与した。
1945年(昭和20年)の日本の敗戦後、武徳会は、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から民間団体へと組織を改編し、人員も刷新された。また、各武道組織の統制も消滅した。しかし、設立当初から旧内務省との密接な結びつきをもっていたため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から解散を命じられ、1946年(昭和21年)11月9日に内務省による強制解散処分を受けて武徳会は消滅し、その財産は国庫に接収された[4]。さらに1947年(昭和22年)には、武徳会に関わった人物約1300名も公職追放された。 前述の通り、武徳会は武術奨励のためにさまざまな事業を展開していた。その中でも特筆すべきものを挙げる。 1919年(大正8年)、武徳会は「剣術」「撃剣」などの名称を「剣道」に統一した。また同時期に、弓術を弓道に、柔術を柔道にも改称している。 称号の始まりは、明治28年(1895年)に結成された武徳会が、同年結成記念第1回武徳祭の大演武会に際し、優れた演武をした者に対し精錬証を授与したのに始まる。武徳会は、毎年大演武会を行い、それに出場した武術家から、武術の保存・奨励に努力してきた人物を表彰する制度を設け、「精錬証」と名付けた表彰を行った。 1902年(明治35年)6月3日に「武術優遇令」が制定され、1903年(明治36年)には、武徳会員で武術・武道を鍛錬する者の地位を表示するために、武術家優遇例として範士・教士の最上位の称号が設けられ、精錬証は教士の下位の称号となった。そして、1934年(昭和9年)には、精錬証を廃止して錬士の称号が制定された。「武術優遇令」では最上位称号の範士には終身年金が送られた。 「武術優遇令」は、1918年(大正7年)4月に「武道家表彰例」と改称され、さらに「武道家表彰例」は1934年(昭和9年)3月に改正が行われ、精錬証授与者を指して「錬士」号と改めた。戦前の昭和17年(1942年)まで一万人を超える各種武術家に称号が授与されている。 1942年(昭和17年)までに、剣道、柔道、弓道、銃剣術、居合術、遊泳術、薙刀術、杖術、槍術、棒術、捕縄術、鎖鎌術、鉄扇術、空手術などの各種武術家約1万名に称号が与えられている。 武徳会によって定められた範士・教士・錬士の称号は、のちの全日本剣道連盟や全日本弓道連盟が発行する称号に引き継がれている。 武徳会においては、柔道の称号が定められていた。講道館における高段位の柔道家も、講道館と武徳会との両組織に並列して所属しており、柔道段位と柔道称号を並列して取得していた。 最初(1903年[明治36年]5月8日)に柔術範士の称号を受けたのは、楊心流・千葉の戸塚英美、四天流・熊本の星野九門の両氏で、次いで嘉納治五郎が(1905年[明治38年]5月)範士の称号を受けている。次いで(1909年[明治42年]6月)、竹内流・熊本の矢野広次、扱心流・熊本の江口弥三、起倒流・岡山の野田権三郎、関口流・和歌山の関口柔心に範士号が授けられた。 嘉納治五郎はそれまでも「武徳会柔術試合審判規定」(1899年)、「武徳会柔術形制定委員会」(1906年)において諸流派の委員をまとめる委員長を務めていた。同様に、称号制定の当初から武徳会全武術の最高位の範士号・教士号の審査を担当する選考委員3名のうちに入っており(共に担当した委員は北垣国道、渡辺昇)、嘉納自身が範士号を授与されたのも他の授与者と比較して40代という若さでであった。また、1914年12月に武術詮衡委員が「柔道」「剣道」「居合」「弓術」「槍術」の各武術毎の委員に委嘱され選考されるようになった際にも、嘉納は全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱されている。 1914年、「範士」「教士」の最上位称号には、それまでの「柔術」「剣術」の表記に代わって特別に「柔道」「剣道」の名称が使用され明文化された。武徳会において「剣道」「柔道」を範士・教士のみに特別に使用したのは、称号授与者が技術と人格を兼ね備えた人物であり、剣術・柔術はそれを目標とすべきであるということを明示するためと推定される。 また、1919年(大正8年)に武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し「柔術」部門も「柔道」部門に改称し統一したように、各諸流派柔術家は公的に柔道家となり活動していくことになる。 1917年(大正6年)、武徳会においてもそれまで講道館が使用していた段位制が導入される。その際に武徳会で発行可能な柔道(柔術)の段位は四段までとされ、五段以上の高段位を取得するには講道館から授与されるものとなっていた。そのため、武徳会においては講道館の柔道(柔術)の五段以上の高段位と同等のものとして柔道称号を使用することとなる。その後、武徳会で他武道においても段位性を採用したことで講道館とは別に独自の柔道高段位も発行するようになっていくが、そのことで講道館と武徳会で軋轢も生まれることとなる。 戦前における空手道の武徳会称号は、昭和9年までは柔道(柔術)の下位部門として授与され、それ以後は唐手術部門として新設認定された。[7] 各称号の授与条件は次のものとなっていた。(1934年改訂「武道家表彰例」) : 武徳祭大演武会に出演し審判員会議の選抜に依りて試験を受け合格したる事。 戦後、武徳会はGHQにより解散を余儀なくされ約1300人ものの人物が公職追放される。武道禁止令を経て柔道は講道館柔道であるとして武徳会と線引きをし、称号制度も継続採用しなかった。
歴代総裁
小松宮彰仁親王
伏見宮貞愛親王
久邇宮邦彦王
梨本宮守正王
主な人物「Category:大日本武徳会の武道家」も参照
井上角八郎、市川阿蘇次郎、磯貝一[5]
山下義韶、永岡秀一、正力松太郎[6]
活動
武道、剣道、柔道、弓道の名称統一
武術家の表彰と称号の制定
柔道の称号
空手道の称号
教士
小西康裕(神道自然流)
上島三之助(空真流)
宮城長順(剛柔流)
錬士
大塚博紀(和道流)
摩文仁賢和(糸東流)
船越義珍(松濤館)※のち戦時中に達士(教士並み)に昇格
山口剛玄(剛柔流)
称号の基準
範士
教士の称号を受け、その後7年以上を経過し、または年齢60歳以上に達したること。
徳操高潔、技能円熟、特に斯道の模範たる事。
武道に関し功労ある事。
教士
錬士の称号を受有する事。
五段以上たること
操行堅実武道に関し相当の識見を有する事。
錬士
年表
1895年(明治28年) 大日本武徳会発足 大演武会で優れたものに精錬証の授与。
1902年(明治35年) 武術優遇令施行。
1903年(明治36年) 戸塚英美(戸塚派揚心流・千葉県)、星野九門(四天流・熊本県) 柔術範士授与。
1905年(明治38年) 嘉納治五郎(講道館・東京都) 柔術範士授与。
1914年(大正3年) 範士・教士の称号において「剣術」を「剣道」、「柔術」を「柔道」と表記・明文化する。
1917年(大正6年) 大日本武徳会において講道館に倣い段位制を導入。
1918年(大正7年) 「武術優遇令」を「武道家表彰例」に改称。
1919年(大正8年) 大日本武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し統一する。「柔術」部門は「柔道」部門に改称され統一される。
1934年(昭和9年) 「武道家表彰例」改訂。「精錬証」授与者を「錬士」の称号に改称する。
1946年(昭和21年) 日本の敗戦に伴い、大日本武徳会 解散。
統一形の制定
大日本武徳会剣術形
1906年(明治39年)、渡辺昇を主任とする7名の範士によって制定されたがあまり普及せず、後に大日本帝国剣道形が制定される。
大日本帝国剣道形
1912年(大正元年)、全国から選抜された25名の剣道家による約1年間の議論を経て制定された。
弓道射形
1933年(昭和8年)5月の全国範士・教士会の要請により弓道家27名によって「弓道形調査委員会」が構成され、同年11月10日から3日間にわたり京都旧武徳殿で議論制定された。
大日本武徳会柔術形(後に「大日本武徳会柔道形」と改称)
1906年(明治39年)7月、京都大日本武徳会本部にて、講道館の嘉納治五郎委員長と戸塚派揚心流の戸塚英美委員、四天流組討の星野九門
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