大日本帝国(だいにほんていこく、だいにっぽんていこく、旧字体:大日本帝?國、英語: Empire of Japan)とは、大日本帝国憲法時代に使用された日本の国号の1つ[1]。日本と海外領土等の総称あるいは別称としても使用された。江戸時代末期(幕末)に外交文書に使用され始め、公式には1947年(昭和22年)まで使用されていた。ただし、古来より現在まで一貫して日本の正式な国号は法的に確定しておらず、「大日本帝国」もまた正式国号ではない(後述)。
大日本帝国憲法下における日本の領土は、現在の日本国の領土に加えて、千島列島や台湾、南樺太、朝鮮、関東州、南洋諸島などを含み、こうした植民地や租借地、委任統治領は外地と呼ばれ、現在では他国の一部や独立国となっている。同憲法はプロイセンの立憲君主制を範として1890年(明治23年)11月29日に施行され、第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法の施行に伴い失効するまで効力を有した[2]。
以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。 ヤマト王権成立後、漢字文化が取り入れられると初め中国、朝鮮側の呼称である「倭」を自国の表記として使用することが多かったが、やがて自国を「日本」、あるいは「倭」を「和」と表記することが増え、701年(大宝元年)の大宝律令では日本の国号が使用された[3]。「倭」や「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの美称として存在するが、対外文書においては江戸時代末期(幕末)まで見られなかった[4]。「帝國」という文字そのものは隋代『文中子・問易』や日本書紀など古典にも散見される表現であったが、いずれも「徳をもって治める国」あるいは天皇の所在を意味する語であり、近代国家の語義としての国家の政体を表示するものではなかった[5]。後者の語義としての「帝国」の語は江戸時代後期にオランダ語Keizerdomの翻訳のために採用された造語であり[注釈 1]、それ以前の時代に漢語として定着した言葉ではなかった[6]。国学系統では「皇国」という語が比較的早期から使われているものの「帝国」という語は幕末まで見られなかった[6]。 対外的な国号に「大」を冠したり「帝國」を使用するようになったのはいずれも幕末のことであり、1854年(嘉永7年)にアメリカ合衆国と批准し、開国の皮切りとなった日米和親条約では、前文において「帝國日本」(英文ではEmpire of Japan)の国号が初めて使われた(各条文では「日本國 Japan」表記)[7]。また、同年にイギリスと批准した日英和親条約では、条約の正式名称では「日本國(日本国大不列顛国約定)」としたが[8]、本文の「日本大君」を英文ではHis Imperial Highness the Emperor of Japanと表記し[9]、日本側の約文(概要)では江戸幕府を「大日本帝國政府」と表記した[10]。 さらに、1858年7月29日(安政5年6月19日)米国と調印した日米修好通商条約では、本文に「帝國大日本」の国号が使われた[11]ほか、脇坂中務大輔は肩書きを「大日本帝國外國事務老中」とした[12]。同様に、10月9日(安政5年9月3日)フランスと調印した日仏修好通商条約でも、本文は「日本國」だったが[13]、間部下総守と脇坂中務大輔はやはり「大日本帝國外国事務老中」の肩書で花押を残している[14]。万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順は1860年(万延元年)、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書[15]上で、日本側を「大日本帝國 大君の全権」と記した。 このように、江戸幕府は開国後に「大日本帝國」の国号を使い始めたが、国号表記は条約によってまちまちであり「日ノ本」「日本」「日本國」「帝國日本」「帝國大日本」「日本帝國」「大日本皇御國」などの表記も使用され、一定しなかった[16][17]。 明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1871年(明治4年)に鋳造された国璽には「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳で「大日本帝國天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス(大日本帝国天皇陛下に祝辞を陳述す)」と記述され[18]、1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(明治憲法、帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国号を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。
国名憲法原本での国名
経緯