大日本帝国
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さらに、1858年7月29日(安政5年6月19日)米国と調印した日米修好通商条約では、本文に「帝國大日本」の国号が使われた[11]ほか、脇坂中務大輔は肩書きを「大日本帝國外國事務老中」とした[12]。同様に、10月9日(安政5年9月3日)フランスと調印した日仏修好通商条約でも、本文は「日本國」だったが[13]間部下総守と脇坂中務大輔はやはり「大日本帝國外国事務老中」の肩書で花押を残している[14]万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順1860年(万延元年)、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書[15]上で、日本側を「大日本帝國 大君の全権」と記した。

このように、江戸幕府は開国後に「大日本帝國」の国号を使い始めたが、国号表記は条約によってまちまちであり「日ノ本」「日本」「日本國」「帝國日本」「帝國大日本」「日本帝國」「大日本皇御國」などの表記も使用され、一定しなかった[16][17]

明治天皇1868年1月3日慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1871年(明治4年)に鋳造された国璽には「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳で「大日本帝國天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス(大日本帝国天皇陛下に祝辞を陳述す)」と記述され[18]、1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(明治憲法、帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国号を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にする嫌いがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により「大日本帝國」に決められた[19]

大日本という表記は「オオヤマト」としては古来から用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。一方「帝國」は代の『文中子・問易』を初出とし「徳を以て治める国」とされた[20]。『日本書紀』にも「帝國」に「みかど」の訓を当てた用例があるが[21]、天皇の所在を意味する用語であり、今日の「帝国」とは必ずしも一致しなかった[22]。一方で、天皇が統治する国という意味で「皇国」「スメラミクニ」(皇御国)が使われていた。これらは政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは本来一線を画していたが、幕末以降に欧米列強の影響を受け、日本側も"Empire"の訳語としての「帝国」を意識するようになった[6]

帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「Empire of Japan」と訳され「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称しており、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対するこだわりが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定した[23]国号を参照。

第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では国名について「大日本帝國」と記載していたが、2月13日、GHQ/SCAP民政局長コートニー・ホイットニーにより憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣及び松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳以降は国名は日本国と記載されるようになり、のち国号に関して1946年7月23日時点における第1次吉田内閣の公式見解として「従来現行憲法(当時は大日本帝国憲法下)においても特に我が国の国号を一定する意味で「大日本帝国」といふ名称が用ゐられたものとは考えていない」ものとされた[24]

その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法により日本は憲法上「日本国」の名称を用いることとなるが、現在においてなお日本の正式な名称を規定する法令等は存在せず、国号の呼称については慣習によるものとされている[25]
通称日本水準原点標庫上部エンタブラチュアフリーズ部分に菊紋と共に右から「大日本帝國」と刻まれている。

通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ(皇国の興廃この一戦に在り)」が有名。日本や日本国は通称としてだけでなく公文書にも使用された。

現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル帝国書院、帝国制帽(現:テイボー)、帝国石油帝国酸素などがある。

2004年(平成16年)に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も社名変更前は「京王帝都電鉄」(大東急解体の際に旧京王電気軌道と旧小田急電鉄帝都線(帝都電鉄)だった路線を引き継ぎ設立したことによる名称)、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」、帝人が「帝国人造絹糸」などと、それぞれ「帝国」を冠していた。

東京大学京都大学などの帝国大学令に基づいて設立された大学は、現在においても旧帝大と呼ばれる。また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある(例:大日本印刷大日本除虫菊)。
国土

大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。この他、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。
首都

明治憲法下においては、關東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日詔書)で「東京ハ帝國ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}宮城(きゅうじょう)(皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。

その一方で元来からの「みやこ」は、維新初期の政情を背景に天皇の東行を東京奠都とされた経緯から、京都は都としての地位が継続し、高御座京都御所に安置され即位の礼大嘗祭が行われていた[26]。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、太平洋戦争大東亜戦争)で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕(松代大本営)に移す予定であったが、当初は天皇自身が反対した事も有り、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。
領土大日本帝国の国土(昭和期)1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島大日本帝国の地形図(1918年11月)


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