大日本帝国
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その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法により日本は憲法上「日本国」の名称を用いることとなるが、現在においてなお日本の正式な名称を規定する法令等は存在せず、国号の呼称については慣習によるものとされている[25]
通称日本水準原点標庫上部エンタブラチュアフリーズ部分に菊紋と共に右から「大日本帝國」と刻まれている。

通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ(皇国の興廃この一戦に在り)」が有名。日本や日本国は通称としてだけでなく公文書にも使用された。

現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル帝国書院、帝国制帽(現:テイボー)、帝国石油帝国酸素などがある。

2004年(平成16年)に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も社名変更前は「京王帝都電鉄」(大東急解体の際に旧京王電気軌道と旧小田急電鉄帝都線(帝都電鉄)だった路線を引き継ぎ設立したことによる名称)、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」、帝人が「帝国人造絹糸」などと、それぞれ「帝国」を冠していた。

東京大学京都大学などの帝国大学令に基づいて設立された大学は、現在においても旧帝大と呼ばれる。また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある(例:大日本印刷大日本除虫菊)。
国土

大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。この他、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。
首都

明治憲法下においては、關東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日詔書)で「東京ハ帝國ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}宮城(きゅうじょう)(皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。

その一方で元来からの「みやこ」は、維新初期の政情を背景に天皇の東行を東京奠都とされた経緯から、京都は都としての地位が継続し、高御座京都御所に安置され即位の礼大嘗祭が行われていた[26]。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、太平洋戦争大東亜戦争)で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕(松代大本営)に移す予定であったが、当初は天皇自身が反対した事も有り、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。
領土大日本帝国の国土(昭和期)1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島大日本帝国の地形図(1918年11月)

大日本帝国憲法(明治憲法)の形質の観点では、明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案の段階で領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定が立ち消えたのであるが、実際にはロエスエルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで、露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸國憲法ノ或ハ領土ヲ列擧スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手續ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた[27]

比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年プロイセン憲法、1871年ドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする[28]

領土は完全な領有権を有する区域であり、内地樺太(後に内地に編入)、台湾朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記の通り。領土面積は最大675,000km2[29]。各領土の概要は下記の通り。
内地
日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下の通り。

本州九州四国:日本の古来からの領土(東北地方平安時代以降)。『古事記』は淡路対馬壱岐隠岐佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。

北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:蝦夷管領場所請負制和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約安政元年12月21日締結)により択捉島得撫島の間に国境を確定。

沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。1879年、廃藩置県を行い琉球藩並びに王統が廃され施政下に入る。

千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。

小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。
この他以下の島々を内地に編入した。

北大東島南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。

硫黄島北硫黄島南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。

南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。

魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。

沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。

竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。

中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。

沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。

樺太


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