大日本帝国海軍海兵隊
[Wikipedia|▼Menu]
^ 中西は創立を明治6年としている[9]。大政紀要によると兵部省のときに水兵部(すいへいぶ[7])の項目があり海軍省を建省した歳に改めて水兵本部と称した[10]。明治4年7月の兵部省職員令では海軍水兵部は要港を守衛し及び水戦の事を掌るとあり[11]、1871年10月16日(明治4年9月3日)には水兵本部の名称が見える[12]。明治4年8月に初めて海兵の募集編隊に着手し[13]、1871年10月3日(明治4年8月19日)に赤塚真成を海軍中佐に任じて直ちに海兵を徴募するため東京丸へ乗組出張を命じており[14]、同年10月には海軍大佐に昇任した赤塚真成に水兵本部分課を命じている[15]
^ a b 水夫の名称については、1876年(明治9年)に海兵を解隊したときに同年8月19日に水夫を水兵と改称している[16]
^ 明治4年の兵部省職員令では提督府は要港を選び府となし沿海管下湾港の兵備を分轄すとされ[20]、明治5年の海軍条例(第1條第10)では提督府は附近の要港を管轄し東京並びに外6箇所に分守する事とされた[19]鎮守府の前身[21]
^ 澤鑑之丞は7月としているが[25]、『太政類典』では8月19日の海軍省届に海兵を解隊して水夫に採用または除隊するとあり[26]、『法令全書』は海兵解隊により関連する海軍省達が消滅した日付を8月19日としている[27] [28]。また、明治11年2月19日太政官第5号達[29]によって海軍省文武官等表中の海兵部が廃止されたため、明治11年としている書籍もある[3][9]。大政紀要によると明治9年8月に海兵を解隊して以来、海兵の情願によりあるいは水兵に採用し、あるいは除隊し、士官についても艦務研究のため各艦船に分乗するなど配置転換により海兵部の武官がいなくなったことから、明治11年2月に官等表から海兵部の部目を廃止した[30]。明治11年の海軍省から太政官への上請にも同様の理由が記載されている[31]
^ 田中穂積は1873年(明治6年)5月31日に命5等鼓手[35]。後に海軍軍楽師[35]准士官)。

出典^ a b c 国立国会図書館 2007, p. 37.
^ 澤鑑之丞 1942, p. 245, NDLJP:1062905/133
^ a b 太田臨一郎 1980, p. 136
^ a b c d e 澤鑑之丞 1942, p. 246, NDLJP:1062905/134
^ 「常備兵員海軍ハ英式陸軍ハ仏式ヲ斟酌シ之ヲ編制ス因テ各藩ノ兵モ陸軍ハ仏式ニ基キ漸次改正編制セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892100、太政類典・第一編・慶応三年?明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
^ 「御沙汰書 海陸兵制の義に付弁官へ申牒御達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090033500、公文類纂 明治3年 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
^ a b c d 国立国会図書館 2007, p. 173.
^ 太田臨一郎 1980, p. 17
^ a b 中西立太 2006, p. 79
^ a b c JACAR:A04017113000(第35画像目、第42画像目)
^ 内閣官報局 編「兵部省第57 兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書(7月)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、714頁。NDLJP:787951/394。 
^ 内閣官報局 編「兵部省第81 艦船水火夫病気入院中乗組ヲ免スル者ハ全快ノ後水兵本部ニ引取本部滞在中ハ元給二分ノ一ヲ給セシム(9月3日)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、762頁。NDLJP:787951/418。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef