大日本帝国憲法
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しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した[29]
憲法改正有限界説詳細は「八月革命説」を参照

大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた[30][31]

一方で日本国憲法の制定は大日本帝国憲法第73条の改正規定によって行われており、この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は…憲法の改正を裁可し…」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は…この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされている。

憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。

このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。この学説によれば帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」されたものであり、両者の間の法的連続性は無いという解釈が取られる。

一方で、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。

なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものが存在する(戦う民主主義を参照)。
現行法制度との関係

大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)の一部については占領政策の終了に伴い法令等に存廃措置されている(詳しくはポツダム命令#現在も効力を有する「ポツダム命令」)。
特徴大日本帝国憲法下の政治体制

この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。一方、大日本帝国憲法第8条により、議会は天皇が発布した緊急勅令については効力停止にすることもできた。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。
構成

大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースの大日本帝國憲法を参照のこと。

第1章 天皇

第1条 天皇主権

第2条 皇位継承

第4条 統治大権

第10条 官制大権及び任免大権

第11条 統帥大権

第12条 編制大権

第13条 外交大権

第14条 戒厳大権


第2章 臣民権利義務

第19条 公務への志願の自由

第20条 兵役の義務

第22条 居住・移転の自由

第29条 言論・出版・集会・結社の自由

第31条 非常大権


第3章 帝国議会

第34条 貴族院


第4章 国務大臣及枢密顧問

第5章 司法

第6章 会計

第7章 補則

第73条 憲法改正


立憲主義の要素

立憲主義の要素としては次の諸点がある。
言論の自由

言論の自由結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。

これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。日本国憲法ではこれらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。
議会制

帝国議会を開設し、貴族院は皇族華族及び勅任議員からなり、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。

帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。衆議院が予算先議権を持つ以外は、貴衆両院は対等とされた。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。

議会は緊急勅令については次の会期において効力を停止させることができた(第8条2項[注釈 5]
大臣責任制・大臣助言制

天皇の行政大権の行使に国務大臣輔弼(天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。

内閣内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの同輩中の首席とされ、国務大臣(各省大臣)に対する任免権がないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。
司法権の独立

司法権の独立を確立したこと。

司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。
国体の要素

国体の要素としては次の諸点が挙げられる。
万世一系

[33]

「天壌無窮の神勅」

日本書紀に書かれた、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという言葉。

「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」

「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾が子孫の王たるへき地なり。宣しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。」

大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には以下のような文章がある。


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