大日本帝国憲法
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1941年(昭和16年)、帝国議会で国家総動員法に対して憲法上の疑義の指摘が起こる(議会の立法協賛の職務放棄にあたる、とされた)[27]
日本国憲法への移行1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた(日本の降伏)。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。

政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。

2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。この「憲法改正草案」は、一部改正方式(いわゆる改め文方式)ではなく、全部改正方式を採用していた[注釈 3]

この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には第22回衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
大日本帝国憲法の論点
内閣と総理大臣についての規定の欠落

大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法(ビスマルク憲法、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。

こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲が政軍両面を一元的に統制していたため問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える[28]

ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も事実上の大臣解任権を持つ議会(国会)[注釈 4]や、独立の大臣等罷免審査の機関(憲法裁判所)が存在しない。「立憲主義#外見的立憲主義」も参照
議員資格審査の秘密性

伊藤博文議会制民主主義に付随する議院法については英国人顧問フランシス・テイラー・ピゴットの助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した[29]
憲法改正有限界説詳細は「八月革命説」を参照

大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた[30][31]

一方で日本国憲法の制定は大日本帝国憲法第73条の改正規定によって行われており、この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は…憲法の改正を裁可し…」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は…この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされている。

憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。

このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。この学説によれば帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」されたものであり、両者の間の法的連続性は無いという解釈が取られる。

一方で、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。

なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものが存在する(戦う民主主義を参照)。
現行法制度との関係

大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)の一部については占領政策の終了に伴い法令等に存廃措置されている(詳しくはポツダム命令#現在も効力を有する「ポツダム命令」)。
特徴大日本帝国憲法下の政治体制

この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。一方、大日本帝国憲法第8条により、議会は天皇が発布した緊急勅令については効力停止にすることもできた。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。
構成

大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースの大日本帝國憲法を参照のこと。

第1章 天皇

第1条 天皇主権

第2条 皇位継承

第4条 統治大権

第10条 官制大権及び任免大権


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