大日本帝国憲法
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1880年(明治13年)、元老院は「日本國憲按」(第三次)を成案として提出し[15][16]、また、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提出した[17]。しかし日本國憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(ベルギー憲法を模範としたもの[18])(1850年)の影響を強く受けていたことから岩倉具視伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見も採択されなかった。岩倉具視も意見書を奏上した[19]独逸学協会名誉会員の一覧(PDF)国会開設の勅諭

1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。9月18日には国策機関独逸学協会(Verein fur die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立した。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者レーマンなども参加していた。

10月12日には「国会開設の勅諭」が発され、1890年(明治23年)の国会(議会)開設が約束されている。
制定までの経緯

1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員であり参議伊藤博文らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学ロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史伝統文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、ドイツ帝国プロイセン)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。

その後、憲政実施のための準備行為として、次の改革が行われた。

1884年(明治17年)7月:華族令が公布されて新たに授爵の制が定められ、華族授爵の詔勅による叙任がなされた。


1885年(明治18年):太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣(首相)となり、司法大臣山田顕義も再任され、ゲオルグ・ミハエリスパウル・マイエットも来日した。この時、同時に、宮内省を内閣の外に置くこととして、宮中と政府との分離が実施された。


1886年(明治19年)1月:公文式が公布され、法律、勅令、閣令、省令等の法形式が定められた。


1887年(明治20年):文官試験試補及見習規則が公布され、官吏任用のための試験制度が設けられた。


1888年(明治21年):市制町村制が公布され、地方自治制度の基礎が定められた。また、枢密院が設けられ、天皇の諮詢に応える機関とされた。

なお、1886年(明治19年)年には、大審院玉乃世履の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問となったロエスレルやアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て憲法草案の起草作業を行った。

1887年(明治20年)5月に憲法草案(甲乙2案)を書き上げた。一方、伊藤の命を受けたロエスレルによる草案もほぼ同時期に作成された。こらの草案を元に、夏島神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた[20]。当初は東京で編纂を行っていたが、伊藤が首相業務に時間を割くことになったことから相州金沢(現:神奈川県横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続、しかし横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生、民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから空き巣であったとされる[21]。最終的には夏島に移っての作業になった[21]。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となって草案の審議を行った。この審議は1889年(明治22年)1月に結了した。
明治天皇の参加

憲法制定にあたり明治天皇も侍従の藤波言忠シュタインの下に派遣して学ばせ、藤波から皇后美子とともに全33回の講義を受けシュタイン流の憲法学と君主機関説を学んだ。この後、枢密院にて皇室典範と憲法の審議が開始されると明治天皇はその審議のほとんど全てに出席して修正条項は朱書して提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長に説明させた。以上のように大日本帝国憲法は天皇の権限を限定する当時最先端の君主機関説を反映したものであり、明治天皇自身もそのように理解していた。また天皇は自らが作った欽定憲法であると自負しており、板垣退助がドイツ憲法の真似だと批判したと聞いて怒ったと伝わる[22]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに憲法発布の詔勅の原文があります。憲法発布式に関わった皇族や官吏に授与された大日本帝国憲法発布記念章(金)。

1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅[23]が出されるとともに大日本帝国憲法が発布された。この憲法は天皇黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。同時に、皇室の家法である皇室典範のほか、議院法貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども定められた。憲法は第1回衆議院議員総選挙実施後の第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。
発布時の反響

国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った[注釈 2]。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した[24]

他方、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている[要出典]。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。


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