略して「帝国憲法」[1]、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。 日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国家体制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した[2]。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、「版籍奉還」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権の総称[3])を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には「廃藩置県」が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。また、帝国議会の設立を規定し、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与えられ天皇の立法権行使に参与し(大日本帝国憲法第5条[4])、司法権は行政権から独立して(大日本帝国憲法第57条[5])、三権分立が明文化された[6]。 版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。 新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族といった爵位が授与された特権階級に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民として「大日本帝国臣民(日本国民)」を改組した。
沿革大日本帝国憲法「上諭」1頁目大日本帝国憲法「上諭」2頁目大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目大日本帝国憲法「本文」4頁目
明治維新による国家体制の変化