大日本帝国憲法
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大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。

新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家諸侯華族といった爵位が授与された特権階級に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民として「大日本帝国臣民(日本国民)」を改組した。旧暦明治4年(1872年)には士族の公務を解いて職業選択の自由を与え[7]、また大日本帝国憲法第19条によって平民も等しく公務就任権を規定した。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事職業の独占は破られて武士の階級的な特権は廃止された。同第20条兵役の義務を規定した。

税制については、江戸時代の農業者に負担の重い税制に代えて臣民全体の義務としての納税が大日本帝国憲法第21条に規定された。また新規に租税を課したり税率を変更したりする際には議会の協賛を経て法律に依ることという租税法律主義が採用された[8]

帝国議会下院:「衆議院」と上院:「貴族院」の両院制)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「華族令」を定めて華族を「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の5爵の爵位に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法第34条は華族の貴族院列席特権を規定した。

なお、現憲法と違って子女に教育を受けさせる義務勤労の義務が入っていないが、教育については憲法制定に先立ち明治5年(1872年)の学制の序文において既に「必ず邑に不学の戸なく 家に不学の人なからしめん事を期す」と国民全体が就学すべきことを謳っている[9]

なお、明治5年(1872年)11月9日、太陰暦を廃し太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布された。同年12月3日が明治6年1月1日となった[10]
明治の変革

王政復古の大号令」によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正福岡孝弟木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公󠄁論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛󠄁ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途󠄁、?民ニ至ル?、各其志ヲ遂󠄂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要󠄁ス
一、舊來ノ陋習󠄁ヲ破リ、天地ノ公󠄁道󠄁ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起󠄁スヘシ
? 「五箇条の御誓文」

政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。

明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

1874年(明治7年)、前年の明治六年政変征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣板垣退助後藤象二郎江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。立憲政体の詔書(国立公文書館収蔵)

1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。…… 茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判󠄁ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情󠄁ヲ通󠄁シ公󠄁益󠄁ヲ圖リ漸次󠄁ニ國家立憲󠄁ノ政體ヲ立テ汝衆󠄁庶ト?ニ其慶ニョント欲ス…… ? 「立憲政体の詔書」(抄)

すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。なお、地方官会議は、1874年(明治7年)にすでに定められていたが、台湾出兵が発生したため開催に至らず、元老院及び大審院の新設とともに初めて開催されることとなったものである[11]
私擬憲法

1874年(明治7年)からの「自由民権運動」において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する[独自研究?]。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある[要出典]。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による天皇の神聖不可侵や立法行政司法の総轄、軍の統帥権を定めている[12]点などは大日本帝国憲法と同様である。
国憲起草への動き

1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた[13][14]。朕󠄂爰(ここ)ニ我カ建󠄁國ノ體ニ基キ廣ク海󠄀外各國ノ成󠄁法ヲ斟酌󠄁シ以テ國憲󠄁ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之カ草按ヲ起󠄁創シ以テ聞(ぶん)セヨ朕󠄂將ニ之ヲ撰ハントス ? 国憲起草を命ずるの勅語

元老院はこの諮問に応え、憲法取調局を設置した。

1880年(明治13年)、元老院は「日本國憲按」(第三次)を成案として提出し[15][16]、また、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提出した[17]


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